中央水研ニュースNo.20(平成10年4月発行)掲載

【研究情報】
魚類の環境ストレス耐性の分子機構の解明をめざして
一現状と将来像一
山下 倫明・尾島 信彦

1.魚類にとってストレスとは
 「ストレス」という言葉は日常的に幅広い意味に 使われるが、細胞生物学でいうストレスは外的環境 要因によって細胞機能に障害がもたらされた状態を 意味する。水温変動、紫外線、放射線、浸透圧、高 水圧などの物理的ストレス、重金属や汚染物質など の化学的ストレス、飢餓、感染などの生理的ストレ スが魚類をとりまいている。天然海域での卵稚仔魚 の生き残りには、餌密度、被捕食とともに環境スト レスが重要な意味をもつ。また、人為的にコント ロールされた増養殖の場でも、高水温、高密度条件 での飼育が成長や成熟に悪く影響することが知られ ている。どのようなストレス源が魚類生理に障害を もたらすのか、魚類にとってストレスの種類と度合 いを知ることは、水産研究の重要な課題である。
 ストレス状態にある細胞ではストレスタンパク質 (stress protein)の誘発を伴う。この機構は広く 生物に分布している。ストレスタンパク質は細胞内 のリボソーム上で合成途上の新生タンパク質の立体 構造の構成、タンパク分子間の会合、細胞内膜輸 送、変性タンパク質の分解に関与し、分子シャペロ ン機能を発揮すると考えられている。ストレスタン パク質として、数十種類の遺伝子が存在すると考え られているが、HSP70はこれまで最もよく研究され てきたストレスタンパク質である。HSP70の発現レ ベルを調べることによって、魚類に対するストレス 状態を知ることができると考え、筆者らは遺伝子の 単離と発現の解析を進めてきた1)

2.ストレスを測る
 ストレスタンパク質遺伝子の発現は細胞内に分布 する熱ショック転写因子と呼ばれるタンパク質が調 節している。通常、この因子は不活性型単量体なの だが、細胞へのストレスによって分子構造が変化し て、三量体となり、活性型に変換される。これが、 ストレスタンパク質遺伝子の上流域調節配列である 熱ショックプロモーターに作用して転写を促進す る。魚類の熱ショックプロモーターに大腸菌βガラ クトシダーゼ遺伝子(魚類には存在しないので遺伝 子発現の指標となる遺伝子)を連結した遺伝子をっ くり、実験魚の一種であるゼブラフィッシュに導入 した(図1)。このトランスジェニック魚がストレ スを受けると、導入された熱ショックプロモーター の作用によって細胞・組織にβガラクトシダーゼが 蓄積される。この酵素の作用によって発色する試薬 で染色すると、ストレスを受けた身体の部位が青色 に発色し、ストレスの度合いを観察することができ る。さらに、熱ショックプロモーター下流に、レ ポーター遺伝子としてクラゲの蛍光タンパク質 green fluorescent protein(GFP)遺伝子を連結し たストレス応答性遺伝子発現系を導入したトランス ジェニツク魚を現在育成中である。受精卵や仔稚魚 を活かしたまま、ストレス下での遺伝子の発現動態 を蛍光観察によって調べることも可能になるだろ う。

3.実験モデル動物としての魚類の位置づけ
 脊椎動物の発生機構の研究にゼブラフィッシュや メダカを使用する動きが広がっている。これまで ショウジョウバエ、アフリカツメガエル、マウスな どを実験に用いてきた研究者が実験動物としての利 点から小型魚類を使って遺伝子を解析するように なってきた。飼育、繁殖が容易で、成熟まで3、4 カ月であり、雌性発生を利用してクローン化も可能 である。10尾程度の親魚から数百個の受精卵を毎 日採取することができる。胚の培養は簡単で、胚が 透明なので顕徴鏡下で生きたまま観察できる。ドイ ツではショウジョウバエの分子発生学でノーベル賞 を受賞した Nusslein-Volhald を中心としてゼブラ フィッシュの形態形成異常すべてをカバーするため のミュータント数千系統を作出するプロジェクトが 進行している2) 。魚類への遺伝子導入は、名古屋大 の尾里らによって、メダカ卵母細胞へのDNAマイ クロインジェクション法が最初に確立された3) 。その後、受精卵一細胞期の細胞質に外来DNAをマイ クロインジェクションで注入する方法が定着し、コ イ、キンギョ、ゼブラフィッシュ、サケ科魚、ティ ラピアなど多くの魚種に応用され、定着している。
 このように魚類は遺伝学と発生生物学の両面から 研究を進めることのできる生命科学の重要な実験動 物であり、その成果が水産有用魚種の研究開発に直 接結びっく利点と魅力がある。

4.遺伝子解析の行方
 受精卵由来の未分化細胞をシャーレで培養可能に した胚性幹細胞(embryonic stem cells,ES細胞) は、マウスで樹立されている。変異を導入したい特 定の遺伝子配列にネオマイシン耐性遺伝子を連結し た遺伝子を合成し、ES細胞に取り込ませると、非常 に低い確率ながら染色体DNAとこの外来遺伝子との 間で相同組換えが起こる。目的の遺伝子座で相同組 換えが起こり、薬剤耐性を獲得したES細胞を培養 して、発生中の受精卵にこの細胞を注入すると、身 体を構成する一部の細胞には目的の遺伝子座に外来 遺伝子の挿入変異のあるマウスが生まれる。このよ うな組換え型マウスを継代し、目的遺伝子座にホモ 型の変異のある系統(ノックアウトマウス)を作出 したり、機能の異なる遺伝子に置き換える(ノック イン)技術が確立されている。
 マウス以外の動物ではES細胞の樹立が困難で あったが、昨年発表された体細胞由来の核の移植に よるヒツジのクローン作出はES細胞を用いる手法 に代わる新しい遺伝子導入法として注目されている4) 。血清飢餓の条件で培養することで細胞分裂を休 止させた培養細胞の核を取り出し、卵細胞の核と入 れ替えると、培養細胞由来の核の遺伝情報をもと に、個体発生が進むということが証明された。体細 胞と生殖細胞では染色体の構造と機能が異なり、高 等脊椎動物ではこのような実験は不可能であると永 く考えられていたが、それを打ち破り、一個の体細 胞から個体を発生させることが現実化した点で画期 的であり、家畜や鳥類、魚類などへの応用が期待さ れている。培養細胞に遺伝子を導入し、その細胞核 を卵細胞に移植すれば、個体発生が進むということ になり、ES細胞に頼らない新しい遺伝子ターゲッ ティング技術となりうる。近い将来、魚類でも特定 の遺伝子座のみを改変し、特定の器官・組織で目的 遺伝子を効率よく発現させる技術が確立されるだろ う。
 大腸菌や酵母のゲノム解析が今や終わり、2003 年、あと5年後にはヒトの全塩基配列が決定される 時がきた。しかし、全塩基配列が決定されたとして も、高等動物のもつ約10万個の遺伝子のうちその 半数以上が機能の不明なものであるといわれてい る。その場合、大腸菌、酵母、ショゥジョゥバエ、 マウスとともに、メダカ、ゼブラフィッシュなどの 魚類が実験生物として重要なものとして位置づけら れ、これら実験生物間での普遍的な遺伝子の機能、 あるいは魚類特有の機能が明らかになるだろう。た とえば、肉質や体色など、水産物としての品質に関 わる遺伝的要素、脳・神経系、生体防御といった高 等動物の高次な機能、発生、成長、生殖、老化といっ た生命の基本現象あるいは行動、回遊といった本能 的な生態現象の分子機構を解明する上で、魚類が研 究材料としてますます重要となってくるに違いな い。

5.ストレス耐性を解明するための具体的課題
 魚類細胞を用いる筆者らの研究によって、水温、 浸透圧、汚染物質など様々なストレスに対してそれ ぞれに特異的な遺伝子が誘発され、細胞分裂、細胞 骨格、膜機能、情報伝達などの細胞レベノレでの機能 的変化が制御されることが明らかとなってきた1,5) 。 これらの多くは他の高等動物にはない魚類特有の細 胞機能であり、行動・回遊や発生・成長など魚類生 理を特徴づける点で重要な生理的役割を果たしてい るものと推定される。筆者らは、先端的遺伝子解析 技術を活用して、以下のように今後5年間で魚類の ストレス応答とストレス耐性発現の分子機構を解明 し、体系化したいと考えている。
①高温、低温、放射線、重金属などストレス処理し た魚類培養細胞に特異的に発現する遺伝子を単離 し、誘導発現性、組織特異性を解析し、関連遺伝子 のカタログ化を図る。
②ストレスに対して反応するプロモーター領域、転 写因子など遺伝子発現調節機構および遺伝子産物の 性質を調べる。
③環境応答性遺伝子プロモーターを利用して、特定 の遺伝子を生体内で効率よく、ストレス誘導的に発 現させる遺伝子導入技術・ターゲッティング技術を 開発する。
④環境耐性に直接的に関与する遺伝子、例えばスト レスタンパク質、細胞分裂周期因子、抗菌・抗ウイ ルス因子などを形質導入したトランスジェニック魚 の種々の系統を作出する。
 本研究によって魚類のもつストレス応答・ストレ ス耐性に関わる遺伝子群の大部分が単離されるだろ う。環境耐性における個々の遺伝子の必須性は、培 養細胞系での過剰発現や発現抑制の実験によって証 明できる。さらに、これら遺伝子を導入したトラン スジェニック魚の各種系統を用いて、ストレス下で の導入遺伝子の発現動態と発生、成長、成熟、行動 など魚類生理への影響を解析することにより、これ まで未知の研究領域であった環境ストレスによる生 体への影響のメカニズムを遺伝子レベルから明らか にすることにより、海洋生物の生残力の遺伝子評価 が可能になるだろう。海洋における生命の進化過程 で魚類が獲得してきた生物機能の本質を追求した い。

(生物機能部細胞生物研究室)
参考
トランスジェニックゼブラフィッシュ
文献
1) 山下倫明:ストレス応答に関わる遺伝子. 魚類のDNA分子遺伝学的アプローチ(青木・隆島・平野編)p.219-243、恒星社恒星閣(1997).
2) Zebrafish Issue, Development, 123, 1-481(1996).
3) K. 0zato et al. : Production of transgenic fish : introduction and expression of chicken delta-crystallin gene in medaka embryos. Cell Differ. , 19, 237-244(1986).
4) A. E. Schnieke et al. :Human factor IX transgenic sheep produced by transfer of nuclei from transfected fetal fibroblasts. Science, 278,2130-2133(1997).
5)M.Yamashita et al. : Molecular cloning and cold-inducible gene expression of ferritin H subunit isoforms in rainbow trout cells. J. Biol. Chem., 271, 26908-26913(1996).

Michiaki Yamashita and Nobuhiko Ojima
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