【研究情報】 | |||
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梨田一也 | |||
平成10年10月15日から18日まで、タイのバンコクにおいて標記の会議が開催され、 日本側のオブザーバーの一員として、水産庁を代表して(?)参加しました。この会議の目的は、 会議の名称にもあるとおり、水産資源の管理を行っていく上で最もベーシックな情報で ある魚種別あるいは分類群別の漁獲量のデータ収集システムを構築することにあります。これは、 SEAFDECの30年来の活動のベースにある課題であるにもかかわらず、諸般の事情からなかなか 達成できずにいる目標です。東南アジア7カ国の水産関係の行政官、当初のもくろみでは部長級 以上の高級行政官、すなわち、実際の施策の実行に強力な権限をもつ担当官の最終合意のための 会議という性格をもっていました。小生は、水産統計を利用する立場にあり、しかもある程度 水産統計情報の収集にも携わっている水産研究者という役どころで参加しました。本当のところは、 この会議の主催者であるSEAFDEC事務局から水産庁に派遣の要請があり、人選を行ったところ なかなか適任者の都合がつかず、小生にお鉢が回ってきたというところでしょうか。 この話を受けたのが9月の下旬で、その直前の高知市の大水害で小生の車が公務員住宅の駐車場で 水没して精神的、経済的ダメージをうけて相当落ち込んでいた時だったので、 気分転換(失礼!)の意味も含めてOKしたという背景もあります。 9月の下旬というのは、10月1日の水研の機構改革に伴い高知庁舎が中央水研の黒潮研究部として 移行するときであり、その後どんなに大変なことが待ち受けているということも知らずに意外と すんなりと引き受けてしまいました。H研究管理官から、「10分間程度の英語による プレゼンテーションだけでよいから…、質疑の時は通訳がつくというし…」という話を真に受けて、 そのつもりで会議に参加したわけです。結論からいって、今回の会議に参加したことは小生に とって多くの貴重な経験を積むことができ、また、東南アジア諸国の水産行政官に知己を得たことは 将来への貴重な財産になったと確信しており、小生を推薦して下さったH研究管理官および某水研の H室長にはこころから感謝しています。 前置きがすっかり長くなってしまいました。本題に入ります。会議は、カセテート大学と 同じ敷地内にあるSEAFDECの本部事務局の国際会議場で行われ、参加者は全体で約40名で、 日本の農林水産省の統計情報部から水産統計室の木下卓係長、金子信也氏および小生の3名が オブザーバーとして参加しました( 写真1)。この会議のコンビナーは かって農水省の統計情報部で日本の水産統計の草創期から精力的に統計の整備に尽力されてきた山本忠博士で、 SEAFDECの顧問として何十年にもわたって東南アジアの水産統計の整備に努力されてきた方です。 お年はとうに80歳!を越えているということを会議の後半になって本人から直接お話を聞いたのですが、 終始会議をリードされ、また、参加者の博士に対する絶大な尊敬と信頼を少しうらやましくも思えるご活躍でした。 会議はすべて英語で行われ、通訳はどこにもいませんでした。多少は英語は理解できると自負しておりましたが、 すべての思考回路を英語で通すのには少し負担が大きく、時折オーバーヒートしてこっくりしてしまいました。 4日間の会議は、各国の水産統計の現状と問題点に報告と、トピックスを中心に進められ、小生の発言予定は 当初は組まれていませんでした。 そこで、会議初日の休憩時間に、山本先生に準備してきたプレゼンテーション用のOHPのコピーをお渡しし、 小生の出番はあるやなしやを問いましたところ、翌日、多少の変更を行うのであればというGOサインが 出たので、2日目の午後に発表すべく急速鉛筆をなめなめ原稿を作成しました。出席者の大半は行政官であり、 あまり専門的な話をしてもアピール力がないので、水産統計が整備されるとどういう資源管理が可能になるのかと いう点を水産資源研究者からアピールすることを最大のポイントとして原稿を作りました。ところが会議が ずれ込んで、結局2日目には小生の出番はなく、3日目の午前中にその順番が回ってくることになり、 時間的・精神的に多少の余裕が出来、英文の原稿ももっとわかりやすくリバイスすることが出来たように 思います。発表はお約束通り約10分でけりをつけましたが、その後小生の発表に関連して20分弱の質疑が あったことを考えると、それなりの役割は果たせたのではと思っています。 最終日の4日目はドラフトの作成が主となりましたが、全体を通してなんとか東南アジア諸国が抱えている 問題点をある程度理解できたのではないかと思います。 これからは余談です。小生、東南アジアは初めての経験で、出国前に書店で観光案内書を買い込んで多少目を 通しただけで、予備知識はほとんどゼロの状態でバンコク入りしたわけです。東南アジアの急速な経済発展と ごく最近の経済危機の話はいろいろ聞いていましたが、バンコク郊外のドンムアイ空港からホテルまでに 目にした光景には結構驚きました。まず最初にびっくりしたのは車の多さと交通渋滞のひどさです。 昨年12月にはアジア大会が開催され、そのための交通網の整備は急速に進められつつあったのですが、 その整備を遥かに越える車とバイク(日本製が9割以上!)の爆発的な普及がこの結果を招いたようです。 ホテルは市の中心部からやや離れたところにあったので、入国した日、一度バンコク入りしたことのある 木下氏に案内されて市の中心部にでかけたのですが、10km弱の道のりに1時間以上かかったのには 参りました。バンコクではタイ料理で通そうと心に決めていましたので、初めての食事は ワールドトレードセンター(写真2)のタイ料理のレストランでとりましたが、 確かに辛かったです。もともと辛いのには目(舌?)がないので大丈夫かなと思っていましたが、 帰国後しばらくお腹の調子が悪かったのは体の方が正直だった証拠です。 会議中の昼食は近くのゲストハウスでタイ料理のバイキングで、朝もホテルでタイ料理でしたから滞在中、 1回だけ思わずフライドチキン食べた以外はすべてタイ料理で過ごしたせいかもしれません。 バンコクの物価の感覚は日本の数分の一で、結構お腹いっぱい食べても円に換算すると安いと正直思いました。 ただ、タイの人にすれば一日汗水流して働いた代価が一人分の食事代に消えてしまうことを考えれば、 なんだか申し訳ない気がし、出された料理はどんなに辛くてもすべて胃に収めました。タイの方からタイには 3つしか季節はない、すなわち、ホット、ホッター、ホッテストシーズンだと聞き、10月中旬は雨季の末期で、 一日に一度は雷鳴とどろきバケツをひっくり返したようなスコールに見舞われながら、なるほどその通りと 納得した次第です。 ただ、会議場内はエアコンがガンガン聞いており、思わず時計についていた温度センサーで室温を測ったところ 22℃!しかなく、外気温35℃と実に13度の温度差で随分体力を消耗しました。会議の4日目にはSEAFDECの マイクロバスで市内を案内してもらいましたが、色彩感覚の美しさは感動的で、特に王宮のきらびやかさは 格別でした。また、市のど真ん中に50階建て以上はあろうかと思われる美しい超高層ビルが 立っているのですが、聞くところによると発注した施工主が事情は忘れましたがなんらかの理由で完成したものの 引き取りを拒否して、巨大な墓標と化していること後で知りました(写真3)。 そう言えば、市内のあちらこちらに建築中なのに工事している気配の全くないビルがいくつかあったのは 経済危機のあおり受けたせいかも知れません。日本企業の看板が立ち並び日本の大手デパートが出店し超高級 ブティックが並ぶその近くにダウンタウンもあります。 タイの普通の人々の生活はまさにそういうところにあります。結構あちこち歩き回りバンコクのナイトライフも エンジョイすることが出来ました。もう少し事前に、タイ語の特訓をしておけばよかったと後悔しています。 最後に、小生の参加にあたって事務手続き等にご尽力頂いたSEAFDECの下村事務局長を始め秘書官ならびに パスポート取得等にご尽力頂いた水産庁の担当官の皆様にはこころより感謝の意を表して筆をおきます。 また、いつかバンコクでお会いしましよう! (黒潮研究部 資源生態研究室)
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