中央水研ニュースNo.18(平成9年11月発行)掲載

【研究情報】
アユの種苗放流が河川の生物多様性に与える影響
内田 和男

 現在、天然アユ資源は減少傾向にある。その原因 の一つとして遺伝的に天然アユと異なる放流魚が再 生産に寄与しないことが指摘され、さらに天然集団 の再生産・遺伝子組成への影響が危倶されはじめ た。

はじめに
 魚介類の種苗放流は漁業資源の維持増大に大きく 貢献してきた。一方、人間が原因で多くの生物が急 激に絶滅しているという。生物の多様性を維持する ことは人類の生存に不可欠であるとの認識から生物 多様性条約が発効した。この条約では地球のあらゆ る生物の多様さを生態系、生物種および種内(遺伝 子)の3つの観点で捉え、生物の生息環境と共にそ れを最大限に保全し、その持続的な利用の実現と公 平な分配が唱われている。生物の多様性の保全と は、様々な階層からなる概念だが、基本的にはあら ゆる種の多様性を「自然淘汰による適応進化」の産 物だとみなし、このあらゆる種の「自然淘汰による 適応進化」の可能性を人為的に消失させないことで ある。この条約が含蓄する要求は深い。水産分野で は生物の多様性を保全しつつ、水産資源を持続的に 利用するための水域の管理手法に関する研究が緊急 課題となっている。
 このため中央水産研究所長を主査とする特別研究 「種苗放流が生物多様性に与える影響に関する研究」 が平成9年度から4年間の計画で始まった。研究の 狙いは、種苗放流が天然集団の繁殖と他魚種の生態 に与える影響を明らかにするとともに、水域の生産 力の適切な利用と生物多様性の維持を考慮した種苗 放流技術を開発することにある。モデル魚種とては マダイ、ヒラメ、クロソイおよびアユが選定され た。内水面利用部漁場管理研究室と魚類生態研究室 は「アユの種苗放流が河川の生物多様性に及ぼす影 響(大課題)」を、それぞれ、中課題レベルで「種 内」および「魚種間」への影響に分けて調べている。 ここでは「種内への影響」についての研究の概要 ()を紹介したい。

アユの種苗放流
 アユの漁獲量は1950年代から直線的に増加して おり、1991年には18,000トンに達した。アユは秋、河 川の中・下流で孵化して直ちに海に降り、冬の半年 を沿岸域で過ごす。春、稚魚が河川漁場に加入す る。夏のアユは付着藻類を食べて成長し、この時、 縄張りを形成する。秋、成熟した親は次世代を残し て1年の一生を終える。アユの天然集団はこの様に 海と川を行き来する両側回遊型の集団である。採捕 した場所にちなんで海産、あるいは、河川産種苗と も呼ばれる。他方、琵琶湖には陸封型の集団(湖産 アユ)があり、また、人工種苗も量産されている。 これら3種類に大別される種苗が毎年1,000トン以上 (3億尾弱)放流され、着実な放流効果(回収率)が 確認されている。アユは海から溯河してくるので、 寸断された河川の上流部ではもともとのアユ漁場が 消滅した。このアユのいない川に再びアユの漁場を 提供しているのも湖産アユを主体とする種苗放流で ある。

種苗放流の目的(回収期待型と再生産期待型)
 種苗放流の目的は2つ有る。一つは放流魚が天然 水域の生産力を利用して大きく育ったところを漁獲 しようとするもの(回収期待型、釣り堀型)である。 もう一つは放流魚が再生産に加わることによって天 然集団(資源)の増進を狙ったものである(再生産 期待型)。アユの種苗放流は主に回収を狙ったもの であり、目に見える効果があがった。放流魚の再生 産については考慮されないか、あるいは、同じアユ なので天然資源のかさあげにつながるものと素朴に 考えられていた。
 アユがたくさん採れる河川を眺めていると、天然 溯上魚の割合が多い。天然のアユ資源をもっと大切 に利用しようとする気運が漁業関係者の間にも高 まってきた。産卵場の保護や造成、親魚放流の他、 再生産期待型の種苗放流への関心も高まった。この 背景のなかで、遺伝子レベルでの集団解析の技術が 進むに連れて、1980年代には湖産アユと天然アユ の特性の違いが再びクローズアップされ始めた。琉 球アユ(アユの亜種)を除く日本の天然(海産)ア ユは大きくみれば一つの遺伝的集団だと見なせる。 しかし、琵琶湖産アユと天然アユは生理・生態学的 には成熟・産卵時期や卵の大きさ、成育に適する水 温、塩分耐性、縄張り形成等の特性が異なり、遺伝 子そのものの解析からも現在では両者が異なった遺 伝的集団(但し、亜種レベルの分化はないという) だと認識されている。

湖産アユの再生産
 湖産アユが毎年、大量に放流されているにも関わ らず、天然アユの遺伝子組成は湖産アユとは明瞭に 分化している。もし、放流した湖産アユが河川で再 生産に関与し、その子孫を残していくとすれば、当 然河川に生息する天然集団の遺伝子組成が変化する ことになるが、天然溯上魚の遺伝子の解析結果から は、湖産アユの遺伝子が天然アユに浸透した形跡は 確認されていないのである。したがって、湖産アユ は天然資源の再生産に寄与していないと考えられる ようになった。
 湖産アユの種苗放流は、回収は期待できるものの 再生産は期待できないらしい。なぜ、再生産に結び つかないのか?有カな説は① 湖産アユは縄張りを持 つ性質が強くて友釣りで採られ易いので産卵期を迎 える前に漁獲されてしまう。そして、② 産卵に加入 したとしても湖産アユの仔魚は海では生理的に生き 残れないというものである。湖産アユの仔魚が生き 残らない理由は、天然アユに比べて高水温かつ高塩 分条件での生残率が著しく低いからである。さら に、放流された湖産アユは早期に産卵し、仔魚も早 期に海に降る。この時、海の水温はまだ高いため、 生き残りにとって悪条件が重なることになる。
 これが正しいとすれば、産卵時の海水温が低いよ り北の水域では湖産アユが生き残ってもよさそうで ある。また、北ほど天然アユの産卵期が早く、湖産 アユと天然アユの繁殖時期の重複が大きいので、両 者の交雑も起こり易いと考えられる。高水温かつ高 塩分への耐性は体サイズの関数であり、大型魚ほど 生き残り易い。仔魚の体サイズは主に卵の大きさに 依存するので、天然アユ♀と湖産アユ♂の交雑魚 は、両親が湖産アユの仔魚より、海域で高い生残率 を示すに違いない。したがって、湖産アユ(遺伝子) が生き残るとすれば、北の海域において、交雑を介 した場合だと予測される。

天然集団の再生産への影響 : 研究の方法と焦点
 天然集団の再生産への影響を2つに分けて考え る。
① アユが産む卵の数は体が大きいほど多い。天然 魚の成長が放流魚との生息場所・餌をめぐる競争に よって抑制され、ひいては、産卵数が減少する可能 性がある。河川において湖産アユと天然アユの繁殖 が隔離されていれば、親魚への影響だけを考えれば よい。湖産アユが海で生き残っても、全滅しても天 然集団への直接の影響はない。② ところが、放流 魚が天然魚と交雑したとすれば、定性的には天然集 団の資源を低下させる可能性がある。さらに、交雑 魚の海での生き残りの程度によって質的にも異なる 結果を生じる。ここでは、海での生き残りが天然集 団、交雑魚、湖産アユの順に高いと考える。まず、 交雑魚が全く海で生き残らないとする(仮説1)。 この場合、天然集団の遺伝子組成への影響はない。 しかし、両親共に天然アユなら生き残る可能性が あったはずの天然アユの子孫(遺伝子、仔魚)は湖 産アユ由来の遺伝子との共倒れで消滅することにな る。有効な仔魚の数が減る。次に、交雑魚が海で有 る程度生き残るとする(仮説2)。この場合には交 雑により天然アユの遺伝子組成を変化させる可能性 がある。さらに、湖産アユの形質の中には、たとえ ば、湖産アユは天然アユより小型の卵を産むことな ど、海での生育に不適当な形質が含まれる。この不 適当な形質(遺伝子)が天然集団に浸透していく と、天然集団の海域での生き残りの可能性(適応 度)が低下して資源量の低下をもたらすこともあり える。
 天然集団の再生産への影響の質や大きさを知るた めには分子遺伝学的知見と生態学的知見を合わせた 数理解析も必要であるが、現時点では放流魚の再生 産に関する知見、特に、交雑の実態に関する知見が 極めて不足している。この研究では放流魚と天然魚 の交雑の実態の把握と海での生残能カの比較が焦点 である。これを、河川調査および実験的な検証手法 を併用して調べたい。

最後に
 「湖産アユを放流しても天然アユは増えないと言う が、本当ですか?」と漁業関係者からしばしば問わ れる。これには、おそらく増えない。増やしたけれ ば地元の天然アユを利用するのがよいだろうと答え ている。しかし、「湖産アユは天然アユに悪影響を 及ぼすと聞いているが、本当か?」と問われたとき には答に窮することが多い。定性的には湖産アユの 種苗放流は天然集団の資源を増やす方向には働か ず、むしろ、減少させる可能性があると考えてい る。しかし、その程度が無視できるほどのものか、 大きなリスクを伴ったものかを判断するための定量 的なデータがない。生産を維持するためには放流に 頼らざるを得ない漁場も多い。しかし現時点では、 湖産アユの代替え種苗を量的に確保することは難し い。漁業者の質問にはっきりと答えられる根拠を得 ることがこの特別研究での直接の目的でもある。

(内水面利用部漁場管理研究室)

nrifs-info@ml.affrc.go.jp
back中央水研ニュース No.18目次へ
top中央水研ホームページへ