中央水研ニュースNo.18(平成9年11月発行)掲載

【研究情報】
貝類の細胞培養技術の現状
淡路 雅彦

 細胞培養の技術は水産研究では主に魚類を対象と して、環境耐性などの生理機能の解明、生理活性物 質の検定、ウイルス病の解明、環境汚染物質の影響 評価などに利用されている。貝類でも神経系の機能 解明 1) 、発生における細胞分化 2,3) 、傷の治癒での 細胞間相互作用 4) 、熱ショック応答 5) 、環境汚染物 質の影響評価 6) などの研究に細胞培養が用いられ ている。貝類の場合、成貝や幼生から分離した直後 の細胞を培養に用いており、このような培養を初代 培養という。初代培養により個体レベルでは解析不 可能な現象も詳しく研究できるが、その技術を使い こなすのにかなりの経験を必要とする。また個体差 や季節的な生理状態の変化も培養結果に大きく影響 する。
 魚類を含む脊椎動物や昆虫では培養下で安定して 増殖する樹立細胞系が得られている。この様な細胞 系は初代培養の過程で形質が変化して無限増殖性を 持つようになったもので、初代培養時の正常な性質 を失っている。しかし研究目的にあった性質を保持 している場合には、初代培養細胞より容易に、世界 共通の研究材料として用いることができるので大き な利点がある。貝類では1974年にヒラマキガイ胚 から細胞系が樹立されたが 7) 、その後は樹立された ものはない。しかし樹立のための研究は今も続けら れている。ここでは最近発表された細胞系樹立に関 する研究を中心として、貝類の細胞培養技術の現状 を紹介する。
培養条件の改良に関する研究
 最近5年間に発表された、細胞系の樹立を目的と する主な研究の内容を表1にまとめた。これらの研 究の目的は、細胞系樹立の前提となる初代培養細胞 を長期間生存させ続け得る培養法の開発にある。
 a 材料組織
 材料組織としては二枚貝の心臓が最も多く用いら れている。これは心臓が囲心腔内に存在し、肉眼で 容易に識別できるため無菌的に取り出しやすいこと や、組織片を培養して繊維芽様細胞を遊出させるこ とが比較的容易なことによる。血液細胞も採血の際 に体表面を消毒すれば無菌的に採取することが可能 で、心臓や他の組織を用いる場合と比較して、採取 される細胞の種類が明確である。鰓は海水に接して いるため無菌化することが困難であるが、Auzouxら は抗生物質、抗カビ剤を含む滅菌海水での洗浄と、 それに0.025%過マンガン酸カリウムを加えて粘液 を除去する事により鰓組織を無菌化する方法を報告 している 8) 。ヒラマキガイ胚からの細胞系樹立例を 考えると幼生由来の細胞を用いる事も有用と考えら れるが、材料の無菌化が難しく季節が限られるた め、あまり用いられていない。
 b 基礎培地と添加成分
 培地はL15を基礎培地とする場合が多く、それに 牛胎児血清など様々な成分を添加している。Wenら は2倍に濃縮したL15を用い 9),10) 、他の研究者は 無機塩類や海水を加えて浸透圧を調節している。 L15は1963年にLeibovitzにより発表された培地で 市販されており、アミノ酸でのpH調節、アミノ酸 濃度が高いこと、ガラクトースが添加されている事 などが特徴の培地である。貝類用培地のアミノ酸組 成については、体液のアミノ酸組成を重視する考え と十分量存在すればよいという2通りの考え方があ る。現在では培地作製の簡便さから後者の考えを取 り、市販の哺乳類用培地を基礎培地として用いる場 合が多い。アミノ酸を多量に含むL15はその意味で 安全な選択といえる。また独自のpH調節作用によ り培養作業中のpHが安定で使いやすい。しかし市 販の各種培地での貝類細胞の生存率を厳密に比較し た研究は少ない。
 添加成分では牛胎児血清を10%添加することが一 般に行われ、貝類の血清 11) や生殖腺抽出物 10) を 添加する例も見られる。これらの添加物が細胞の生 存率に及ぼす効果については定性的な記述が多い が、Domart-Coulon らはマガキ心臓細胞で定量的な 検討を行い、10%添加した場合マガキ血清は細胞の 生存率に影響を及ぼさないが、牛胎児血清は有意に 向上させることを示している 12) 。また彼らは多く の生理活性物質について細胞の生存率への影響をス クリーニングし、その結果に基づいて「FP1」と いう培地添加物を開発し、組成を発表している。彼 らの研究結果で興味深いのはカタラーゼ、ヒト上皮 成長因子(EGF)、血小板由来成長因子の添加が細胞 の生存率を向上させる点である。カタラーゼは心臓 の初代培養に多数含まれる血液細胞が産生する活性 酸素を除去すると考えられる。EGFについては Lebelらもアワビの血液細胞でタンパク合成、DNA 合成の促進効果を報告しており 13) 、Odintsovaは ムラサキイガイ軟体部の酸エタノール抽出物にEGF 活性のある事を報告している 14) 。またFP1には ニワトリ卵黄抽出物が含まれているが、Cornetもム ラサキイガイの染色体標本作製に関する報告で、卵 黄抽出物添加培地で外套膜や足組織を1週間培養し 細胞分裂中期像が多数得られることを報告している  15)
 c 培養基質
 繊維芽様細胞や上皮系細胞は、一般に培養皿に接 着、伸展する方が生存率が高まる。対象とする細胞 が通常のプラスチック皿等に接着しにくい場合は工 夫が必要となる。繊維芽様細胞では、Renaultらは 培養フラスコをポリ-D-リジンで処理して電荷的に 心臓細胞の接着を促し、伸展も良くなる事を報告し ている 11) 。Naganumaらもアカネアワビ幼生由来細 胞でボリ-D-リジン、接着性タンパク質、Iおよび IV型コラーゲンが細胞接着の促進に有効であるこ と、牛胎児血清の15%以内の添加が接着を促進す ることを示している 2) 。またLebelらは培地へのコ ンカナバリンA添加で血液細胞の接着、伸展が顕著 に促進されることを示している 13) 。上皮細胞では Awaji and Suzuki が血液細胞を支持細胞として用 いると、外套膜上皮細胞が血液細胞に接着し、上皮 シートが形成されることを示している 4) 。上皮細胞 の接着やシート形成を促す物質についてはまだ不明 である。またシート形成に伴い上皮細胞はDNA合 成を開始するが、細胞の増殖は確認されていない。
遺伝子導入による細胞系樹立の可能性
 1995年にTapayらはクルマエビ属のP.stylirostris のリンパ器官由来初代培養細胞にSV40 largeT 抗原遺伝子を導入して形質転換させ、細胞系を樹立 することに成功した 16) 。SV40 largeT抗原は細胞の 正常な増殖を制御しているRbとp53というタンパ ク質に結合して不活性化し、細胞を無限増殖させ る。このような効果は貝類細胞でも起こると予想さ れ、遺伝子導入による細胞系の樹立が可能と考えら れる。最近、貝類細胞への遺伝子導入法が検討され 始めている。1996年にBouloらはマガキ心臓初代培 養細胞への遺伝子導入と導入遺伝子の発現を報告し た 17) 。遺伝子導入にはリポソーム法を用い、プロ モーターとしてはショウジョウバエhsp70プロモー ターが効果が高いことが示されている。今後このよ うな遺伝子導入による細胞系の樹立が盛んになると 予想されるが、その場合でも初代培養条件がしっか りと確立されていることが成功の前提条件となる。 また樹立細胞系が研究目的とあった性質を持つかも 問題となる。地道な研究の積み重ねが大切である。
(生物機能部分子生物研究室長)
参考文献
1) Syed, N. I. Bulloch, A. G. M, and Lukowiak, K., Science, 250, 282-285(1990)
2) Naganuma, T., et al.,  Mol. Mar. Biol. Biotechnol., 3(3), 131-140(1994)
3) Naganuma, T., et al., J. Mar. Biotechonol., 4, 75-81(1996)
4) Awaji, M. and Suzuki, T., In Vitro Cell. Dev. Biol., (印刷中)
5) Tirard, C. T., et al., Fish Shellfish Immunol., 5, 9-25(1995)
6) Alvarez, M. R. and Friedl, F. E., Aquaculture, 107, 135-140(1992)
7) Hansen, E. L., TCA Manual, 5(1), 1009-1014(1979)
8) Auzoux, S., Domart-Coulon, I., and Dumenc, D., J. Mar. Biotechnol., 1, 79-81(1993)
9) Wen, C. M., Kou, G. H., and Chen, S. N., J. Tiss. Cult. Meth., 15, 123-130(1993)
10) Wen, C. M., Chen, S. N., and Kou, G. H., In Vitro Cell. Dev.  Biol., 29A, 901-903(1993)
11) Renault, T., Flaujac, G., and Le Deuff, R.-M., Meth. Cell Sci., 17, 199-205(1995)
12) Domart-Coulon, I., et al., Cytotechnology, 16, 109-120(1994)
13) Lebel, J. -M., et al., Biol. Cell, 86, 67-72(1996)
14) Odintsova, N. A., Nesterov, A. M., and Korchagina,   D. A., Comp. Biochem. Physiol., 105A, 667-671(1993)
15) Cornet, M., C. R. Acad. Sci. Paris, 315, Ser. Ⅲ, 7-12(1992)
16) Tapay, L. M., et al., Proc. Exp. Biol. Med. 209, 73-78(1995)
17) Boulo, V., et al., Mol. Mar. Biol. Biotechnol., 5, 167-174(1996)

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