■ 研究紹介 中央水研だよりNo.2(2006. 平成18年3月発行)掲載
シーボルトが持ち帰った淡水魚-学名の復活と新和名- 岡崎登志夫(水産遺伝子解析センター) A freshwater fish taken home by Dr. P.F. Siebold  - Redescription and a new Japanese name - Toshio Okazaki  (Aquatic Genomics Research Center)


はじめに
はじめに
 どこにでもたくさんいるといった意味で、「雑魚(ざこ)のように」という言葉が良く使われます。後述するように、これに由来した学名がつけられている淡水魚にコイ科のカワムツがあります。静岡と富山を結ぶ線より西から朝鮮半島まで、どこの河川にも文字通りうようよ生息している淡水魚です。これらの地方で多少とも川釣りや川遊びをする人なら必ずお目にかかることのできる魚です。これ程ポピュラーなカワムツの中に実は異なる種が含まれているとは専門家も含めて想像もしないことでした。これに最初に気がついたのは高校で生物を教える渡辺昌和さんでした。現在では人為的な移殖の影響でカワムツは関東平野でも普通に生息するようになっていますが、30年程前は関東ではペットショップでのみ見られるものでした。埼玉県に住む渡辺さんは小学校5年生の時にペットショップで売られているカワムツの中に違うものが混じっていることに気がついたそうです。誰に聞いても返ってくる「同じ種類に決まっている」との答えに納得できず、それが高じてその方面の大学に進み、この問題を卒論のテーマにするというところまでいってしまいました。その慧眼と情熱には脱帽の他ありません。
 私が初めて渡辺さんを知ったのは彼が「カワムツには2種類いる」ということを学会で発表し出した1987年でした。当時の私は研究の対象をサケ科魚類からコイ科等の淡水魚に変えたばかりで、スライドに映し出された姿を見てもその違いを認識できる程の能力はありませんでした。学会というのはどこも保守的なようで、「カワムツのように周知の魚が2種類から成ることなどあり得ない」というのが多くの専門家の意見でした。実はその翌年、私自身がカワムツには2種類いるということを遺伝学的に確認するという偶然に巡り会い、この問題にかかわっていくことになったのです。
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別種であること
の確認
図1
 
別種であることの確認
 当時、私は同じ独立行政法人に属し、三重県にある養殖研究所で魚類の集団構造や進化を遺伝学的に研究していました。渡辺さんが卒論の時に所属していた研究室と共同で行っていた海産魚の分析がいきづまっている時がありました。それもあって、実験が一段落した夕方に分析法の研修に来ていた大学院生の佐野雅昭さん(現在、鹿児島大学助教授)と、研究所のすぐ脇にある小川で気晴らし程度の魚採りをしました。その際の採集物の中に渡辺さんの言うカワムツの2種が入っていることに佐野さんが気がついたのです。渡辺さんのいた研究室ではこの2種が水槽で飼育されていたため、ここに所属する人は両者を識別することができたのです。学会で見たスライドでは分かりませんでしたが、両者をバケツに入れて比較すると後述するように鰭の色が明らかに違うことが分かりました。早速、翌日にアロザイム(酵素としては体内で同じ働きをしますが、異なる遺伝子によって支配されるため分子型が違っているものを指します。人間のABO式血液型と同様なものです)分析を行った結果、両者は別種であることが確認されたのです。
 図1はそれを確認した実験結果の一部です。ACP(アシドフォスファターゼ)という酵素には分子型の異なる2つのタイプがあり、左の4個体(通常のカワムツ)では「*100」という遺伝子によって、また右の4個体(渡辺さんがみつけた新種)は「*-10」という遺伝子によって支配されていることを示しています。この結果、両者は同じ場所に生息しているのに違う遺伝子によって支配されていることから、その間には交雑が生じていないことが分かりました。
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同種(亜種)か別種かはどうやって判定するのか
同種(亜種)か別種かはどうやって判定するのか
 市販されている図鑑を見れば調べたい生物が別種なのか同種なのかを知ることができます。カワムツの場合「同じ場所に住むものの間で交雑が起きていないので別種であることが判明した」と述べましたが、実は同種か別種かを客観的に示すことが困難な場合も多々あるのです。
 クマを例にすると、日本では北海道にヒグマが、本州以南にはツキノワグマが分布しています。両者の分布は重なっていないのでその間で交雑が起きるかどうかを確認することはできません。人工的に無理やりに交配させることが出来たとしても同種とは言えません。動物園でライオンとヒョウの間に誕生することがあるレオポンのように、人工的な環境に無理やり閉じこめておくと自然界ではあり得ないような組み合わせの間に子供が出来ることがあるからです。ツキノワグマとヒグマが別種とされるのは形態にはっきりした違いがあり、将来もし北海道と本州が陸続きとなって両者の分布が重なることがあっても、その間で交雑が起こることはないだろうと考えられるからです。ヒグマはシベリアにも住んでいますが、北海道のものとは毛の色や体格などに多少の違いが見られます。しかし、この程度の違いであれば両者の分布が重なった場合には互いに問題なく交雑して子孫を残していくであろうと考えられるので同種とされているのです。一方、問題なく交雑するだろうけれど両者にはある程度の違いがあるという現実に重点が置かれれば、亜種として扱われることになります。このため、分布の重なっていない生物については図鑑によって同種であったり別種と書かれていたりすることがあります。こういう場合は研究者によって見解が異なっているわけです。
 ここでカワムツに立ち戻ると、両者は同じ場所に生息しているにもかかわらず、交雑が起きていないということが実験から証明されたわけです。つまり、両者はお互いに相手は自分の仲間ではないということを何らかの方法で認識しているのです。ちなみに両者を狭い水槽に一緒に入れておくと簡単に交雑が起こってしまいます。自然界ではたとえ同じ場所に分布していても繁殖の時期や場所が微妙に異なっていたり、多くの鳥にみられるように雌雄の間に決まった儀式的な行動がとられてから初めて交尾が行われる、といったように様々な方法で種間の交雑が起こりにくい仕組みが備わっています。この仕組みがなければ同じ場所でそれぞれが別種として生存していけないわけですから当然のことといえるでしょう。
 蛇足になりますが、通常イヌの場合で犬種と呼ばれているシェパードやダックスフント等の関係は品種になります。イヌはオオカミから人間が家畜化したものと言われていますが、その過程で生じた様々な変異を人間が固定して育ててきたものがこれらの犬種となったわけです。ですから、人間が繁殖を管理しなくなればお互いに交配してそのうちにそれぞれの特徴は無くなってしまいます。色の違うバラ等もこの品種に当たります。
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カワムツ2種の
違い
写真1
 
写真2
カワムツ2種の違い
 それでは両者はどこで識別できるのでしょう。この写真は渡辺さんに提供してもらったもので写真1が通常のもの、写真2が新種と判明したものです。写真2の個体は胸鰭の前部が赤く縁取られているのに対して写真1ではこれが見られません。また、写真2の個体の方が鱗が細かく、これは頭から尾にかけての鱗の枚数の差として示されます。また、この写真はいずれも産卵期の雄の個体ですが、この時期には体や鰭の表皮が厚くなってできる突起物が特定の場所に出現し、追星(おいぼし)と呼ばれています。目の回りに見える白いつぶつぶが追星で、カワムツでは弱いながら雌にも出現します。この出現部位にも両者に差が見られます。写真2の個体では鰓蓋の後ろの方にもはっきりと出現しますが、写真1の個体ではほとんど見られません。このような特徴を生きた個体で体得しておけば、簡単に両者を識別することができるようになります。
 両者はコイ科魚類の研究者として知られる中村守純さんが著した「日本のコイ科魚類」の中で写真1のタイプが図版-Bとして、また写真2が図版-Aとして掲載されていたため、とりあえずカワムツA, カワムツBとして扱われ、図鑑にもそのように書かれるようになりました。中村さんも1960年代にカワムツには複数の種がいる可能性を示唆していたのです。しかし、これもその後の研究者に取り上げられることはありませんでした。
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シーボルトとの
関連
写真3
シーボルトとの関連
 これまでに知られていない種が新種として認められるためには、その基となる標本を基準標本として登録すると共に専門の学術雑誌に論文として掲載する必要があります。カワムツについても分類の専門家とこの準備をしている過程で、これは新種ではなくすでに外国で命名されていることが判明したのです。その標本を日本から持ち帰ったのは江戸時代末に長崎の出島にいたシーボルトであり、その標本を整理したオランダのライデン博物館のテミンクとシュレーゲルによってBには「Zacco temminckii」、Aにはシーボルトにちなんで「Zacco sieboldii」という学名がつけられたのです。学名は2つのラテン語から成り、形態的に類似した種をまとめたグループ名を前に(属名)、そして個々の種の名前を後ろにつけます(種小名)。つまり、家族名と個人名で記される日本人の姓・名と同じように表されます。ここで「Zacco」というのは前述した「雑魚」にちなんでつけられたものです。また、学名とは別につけられ、我が国で一般に使われる名前が和名です。
 写真3がシーボルトを含めた3人によって著された「ファウナ・ヤポニカ」(日本動物誌)に掲載されたカワムツの2種でIVがZacco temminckii、VがZacco sieboldiiです。IVに比べてVの方が鱗が細かいことが良く表されていますね。
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学名の復活と
新しい和名
学名の復活と新しい和名
 日本ではカワムツの学名としてZacco temminckiiが使われてきました。このためZacco sieboldiiという学名は長いこと使われず、「遺失名」という扱いになり有効でなくなってしまいました。そこで、以下の論文で再記載されて元通りの有効な学名として復活したのです。
Hosoya, K, H. Ashiwa, M. Watanabe, K. Mizuguchi and T. Okazaki (2003) Zacco sieboldii, a species distinct from Zacco temminckii (Cyprinidae). Ichthyol. Res., 50:1-8.
 また、新たな和名として「ヌマムツ」という名前がつけられました。これは中国地方の瀬戸内海側でそう呼ばれていたことにちなんでいます。流れのある場所を主な生息場所とするカワムツに対し、流れの緩やかな河川や池、沼に好んで住むということを的確に現しているように思います。採集してきたものを蓋をしないバケツに入れておくとカワムツの大部分はバケツから飛び出してしまいますが、ヌマムツではまずそのようなことはありません。恐らく、両者ではそれぞれの生息域に関連して、水中に溶けている酸素量に対する適応に違いが生じているのでしょう。ヌマムツの名前はすでに市販の図鑑にも使われています。
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ライデン博物館
写真 5
写真4
 
写真5
ライデン博物館(写真 5
 シーボルトが持ち帰った標本や資料はオランダのライデン博物館に保管されています。ここには日本ではすでに絶滅してしまいましたが、Nipponia nippon という学名をつけられ正に日本を代表する生物であるトキやニホンオオカミ等の貴重な標本も保管されています。しかもこの標本はこれに基づいて初めて報告された基準標本です。もしも将来、日本のどこかでオオカミが見つかったとしたらそれが本当に以前に生息していたニホンオオカミと同じ種類なのかを確認するために不可欠な標本となるのです。正に、人類共通の貴重な文化遺産ということができます。
 写真4はシーボルトが持ち帰ったヌマムツのアルコール漬け標本です。170年以上の時を経ているとはとても思えないほどの保存状態で、文化国家としてのオランダの伝統が感じられました。基準標本は博物館などの公的な機関で永久に保存される必要がありますが、日本の博物館は欧米に比べると人員や予算の面でかなり立ち後れています。文化国家として貴重な文化遺産を後世に伝えていくという面からも、国民からさらなる暖かい支持が得られることを願わずにはいられません。
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おわりに
図2
 
写真6
おわりに
 写真6はシーボルトが生まれたドイツ、ヴュルツブルグ市にある彼の胸像です。以前から憧れていたシーボルトと直接に関われるような研究をすることになるとは思いもかけない驚きであり喜びでした。シーボルトは外国からの情報が閉ざされていた江戸時代にあって、日本人に自然科学というものとそのおもしろさを初めて伝えてくれた人です。長崎にあった鳴滝塾で数多くの優秀な弟子を育てたことは良く知られています。門弟の中には伊藤圭介のように東京帝大の教授として植物学を教え、日本で最初に理学博士の学位を得た人もいます。彼らの活躍によって日本は文化国家としての道を歩み出したのです。
 図2はカワムツとヌマムツの天然の分布域を示したものです。ヌマムツは瀬戸内海沿岸を中心とした地域にカワムツと一緒に生息しています。カワムツは日本の淡水魚のルーツと考えられている朝鮮半島にも分布していますが、ヌマムツの分布は日本だけに限られています。また、両者は外形が酷似するにも関わらず遺伝子レベルでは予想外に遠縁で、ヌマムツの起源や進化についてはまだ多くの謎が残されています。様々な分析方法が発達した現在にあって、我々研究者がその解明に努めるのはそれを世界に発信してくれたシーボルトに対してのせめてもの恩返しのような気がします。
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