中央水研ニュースNo.25(平成12年12月発行)掲載

【研究情報】
ホルマリンだけでは固定されない
三輪 理

 光学顕微鏡による組織形態学は,一般的にはまず化学固定液による組織の固定,次にパラフ ィンへの包埋,そしてミクロトームによる薄切り,さらに染色という過程を経て,初めて観察 可能になります。最後の染色方法(組織化学的方法)はここ30年ほどで,大きく進歩し,私 も当初使っていた化学染色剤に加えて,レクチン,抗体,さらには遺伝子プローブなども使う ようになりました。しかし,やっている操作自体は,切片の上にとっかえひっかえいろんな溶 液をかけるということで,その基本的な手技は昔とほとんど変わりません。このように古典的 な研究手段ですが,未だに医学・生物学の研究には無くてはならないもので,最先端の分子生 物学の論文にもしばしば昔ながらのパラフィン切片の写真が登場します。ところが,このよう にほとんど完成された方法であり,水産の分野でも多くの人が利用しているのにも関わらず, 意外と基本的なことが知られていないように思います。その一つが固定液に関することで,本 論では,主として私の個人的な経験から,水産動物の組織を固定する上で,いくつかの固定液 の特性とそれによる固定液の選択について述べたいと思います。もちろん組織学の専門家には 釈迦に説法かと思いますが,非専門家やこれから組織学をやろうと思う方にはお役に立つかも しれません。
 さて,表題にあるように,固定液というと皆がまず思い浮かべるであろう,一番一般的な「 10%ホルマリン液」というのは,実は光学顕微鏡による組織形態の観察を目的として水産動物 を固定するのには通常まったく不適です。私がこのことに気づいたのは,恥ずかしながら研究 生活にはいって,だいぶ何年も経った後でした。当時,なんとか魚の美麗な組織標本を作ろう と,中性緩衝ホルマリン液を使ったり,あるいはパラホルムアルデヒドを溶かして使ったり, また,固定液や組織を冷やしたりと,さまざまなことを試みたのですが,どうしても汚らしい 標本しかできません。組織学の本にはホルマリン固定による美しい組織の写真が載っていると いうのに。Bouin液でいいかげんに作った標本の方がはるかにきれいなプレパラートができる のです。 私はこの時初めて「もしかすると魚はホルマリン固定じゃだめなんじゃないか」と 気がつきました。お読みの方の中には「なんてばかなやつだ。」と思われる方がいらっしゃる でしょうが,このことがはっきり書いてある本はなぜかみたことがありません。そこで,私の ような無駄をやる人が少しでも減るようにこの文を書いているわけです。
 それでは,組織学の本,あるいは染色法の本には10%ホルマリンで固定した美しい標本の 写真が載っているのはなぜでしょうか?
 佐野豊著「組織学研究法」(南山堂)によると(この本には組織の写真はありませんが),ホルマリン固定の項には「使用法が簡便であり,廉価で あることと,そのつよい浸透性と良好な固定力によって,ホルマリンは今日もっとも広く使用 される固定液の1つである。・・・(中略)・・・・,ホルマリンは種々の固定液の中でもっ とも一般的なものということができる。」と述べられています。組織学が魚類を材料に発達し てきたのなら決してこのように書かれることはなかったでしょう。
 これらの本はほとんど人間をはじめとする哺乳類の組織を対象に書かれていますから,別の言い方をすれば,なぜ哺乳類 はホルマリン固定でよくて,魚はだめなのか?ということになります。これはおそらく死後変 化のスピードのちがいと,ホルマリン固定の特性によるものだと思われます。実はホルマリン 液は,浸透してもすぐに組織を固定しないのです。ホルマリンによる固定は,まずホルムアル デヒド(CH2O)が1分子の水をとり,CH2(OH)2になり,そのH基とOH基が蛋白などの分子とメチレ ン結合することによって達成される(前出「組織学研究法」)と考えられています。しかし, ホルムアルデヒドと水の反応は平衡が大きく片側に傾いており,実際に固定に関与するCH2(OH)2 分子はごくわずかしか溶液中に存在しないらしいのです。水平らの実験によると(誠に残念な がらreferenceを無くしてしまいました)ホルマリンが浸透してから組織中の蛋白質の95%が固 定されるまでには3時間を要したということです。ほ乳類の組織は死後の自己消化などによる 組織の崩壊が比較的ゆっくりのためにそれでもよいのでしょうが,魚はご存じの通り,非常に 「足」が早く,たとえホルマリンが浸透しても,固定が進行するまでに細胞の変性がおこって しまうのではないでしょうか。これを支持する証拠として,魚の中でも「足」が遅いものでは ホルマリン固定でも比較的ましな標本ができるということがあります。もちろん同一個体の中 でも組織によって形態保持のされ方は違います。消化管上皮などは消化酵素と接触しているた めか通常きれいな標本を作りにくく,また,神経組織もかなり固定が難しいといえます。仔魚 は稚魚や成魚よりさらに固定が困難です。ホルマリン固定による神経組織の切片は高倍率では しばしば,すかすかになっていたり,また私自身の経験ではありませんが他人のホルマリン固 定脳切片で,なぜか切片が大きくひび割れてしまっているのを何度か見たことがあります。
 実はつい最近もある熱帯地方で固定された,病魚の脳と称するホルマリン漬け標本が送られてき たのですが(まだ生きている魚を用いたとのことでしたが),脳組織は崩壊してまったく原型 をとどめておらず,現地では確かに脳をビンに入れたのであろうという証拠に,内耳の三半規 管が周辺の脂肪組織と共に残っているだけでした。ただ,資源学的分野の研究などで卵巣卵の 発達ステージをみるくらいだったらホルマリン固定で十分かもしれません。特殊な用途,たと えばin situ hybridizationなどではプローブの標的へのアクセスをよくするためにわざと弱 いホルマリン固定を行うことがあります。その場合は粉末のパラホルムアルデヒドを溶かして 純粋なホルムアルデヒド溶液を作って使用することが多いようです。ホルマリン固定では組織 の染色性は比較的良好に保たれます。また,現在の組織学は上述のように哺乳類のホルマリン 固定組織を基本に発達してきており,多種類の染色法や渡銀法などがホルマリン固定組織を対 象に考案されているため(あるいは単に染色法の本に「固定はホルマリンで行う」と書いてあ るため),これら特殊な染色のためには魚類でもある程度形態の保存を犠牲にしてもホルマリ ン固定を行うことはあります。また,現場でホルマリンしかないというときは,濃度を高くし てできればなるべく低温で固定するなどすれば少しはましかもしれません。
 なお,実際に市販されている「ホルムアルデヒド」原液はホルムアルデヒドを36~38% 含み,さらにホルムアルデヒドの重合を防ぐために5~10%の割合でメタノールを加えてあ ります。(和光特級の例。)したがって10%ホルマリン液中の実際のホルムアルデヒド濃度 は3.6~3.8%ということになります。

魚に適した固定液とは
 それでは,魚を固定するにはどのような固定液が適しているのでしょうか?純粋に形態観察 のみを目標として考えると,まず候補にあげられるのがBouin液です。ホルマリン単独固定と 異なり,ピクリン酸や酢酸などによりタンパク質を直ちに変性・凝固させて死後変化を停止さ せ,それをさらに,後からホルマリンがゆっくり固定するという原理で固定が進行すると想像 され,これは他の多くのホルマリンを含む固定液にも共通する思われます。また,酢酸が含ま れているため脱灰も同時にできるというのも,魚の固定液としては便利です。Bouin液なら神 経組織もわりときれいに固定することができます。比較的組織も硬くなりすぎないので一般的 に魚類の組織形態を観察したり,大きな切片を作って広い範囲を検査したい病理組織学的分野 に向いていると思います。しかし,Bouin液の欠点として,染色性があまりよくないというこ とがあります。特にアザン染色のように微妙な染め分けを要する染色は,もちろん可能ですが ,あまりきれいな結果が出ないような気がします。これは以下に述べるDavidson液も同じかも しれません。
無脊椎動物には
 水産では魚に限らず,エビなどの甲殻類や,貝などの軟体動物も扱います。数年前に,ご存 じの「アコヤガイの大量死」問題が発生し,当時養殖研の病理部に所属していた私もアコヤガ イを固定して組織切片を作ることになりました。そこで軟体部をBouin液で固定したのですが ,驚いたことに魚には万能と思われたBouin液なのにあまり固定がよくありません。とくに消 化盲嚢がひどく,病変があったとしてもよくわからないような状態でした。そこで昇汞ホルマ リン液を用いたところ,非常にきれいなプレパラートを作ることができました。後にDavidson の固定液でも十分良好な標本が作れることがわかり,使いやすさの点からその後はそちらを使 っています。ちなみにアコヤガイを扱っている人は,アコヤガイは丈夫な生き物で水から出し て宅急便で送っても十分生きているとお考えになっているようです。確かに生きてはいますが さすがにだいぶストレスがかかるようで,宅急便で送られてきた直後の貝は性能のよい(強い )固定液で固定しても,例の消化盲嚢の形態が悪くなります。どこがどう悪いと具体的にいう のは難しいのですが,全体に固定がとても悪いというような感じになってしまいます。送られ てきてから一週間くらい海水中で回復させると再びきれいな組織標本ができるようになります 。(実は魚でも不健康な個体からは,たとえ固定する組織自体に病変が無くともなぜか満足の いくプレパラートができません。)
 Davidson液はもともと二枚貝のために考案された固定液らしく,無脊椎動物の研究者の間で は以前から一般的に使われていたようです。酢酸を含むため甲殻類の固定にも十分威力を発揮 します。現在,世界中でエビ養殖が盛んになるにつれ,さまざまなエビの病気が発生していま すが,エビの病理組織学的観察のために使われているのは多くの場合Davidsonの固定液だと思 います。実は私もクルマエビのPAV(エビの急性ウイルス性敗血症)による大量死が問題にな ったときにエビの専門家である山口水試の桃山氏からこの固定液がよいと教えていただきまし た。また,殻長1cm程度のアワビの稚貝なども殻ごと固定でき,数日で殻がぺらぺらに脱灰さ れてはずせるようになります。たとえ無脊椎動物でも理屈では死後変化が十分遅ければホルマ リン単独でもきっちり固定できるでしょうが,よくわからないときはDavidson液を使うのが無 難であるといえるでしょう。
 Davidson液がもうひとつBouin液より優れているのは,液を調製 後室温で長期保存が可能な点で,少なくとも2~3ヶ月程度は大丈夫のようです。Davidson液で は基本的にBouin固定と同じ様な感じの組織像が得られます。ただ,Bouin液による固定より組 織が微妙に硬くもろくなり,切片を作りにくく感じることがあるようです。
なお,これはBouin液にも共通することですが,これらの固定液で固定すると,細胞核中の染色質が周辺ある いは中央部(仁)に濃縮するように見え,したがって核のコントラストが強くなるため,一見 標本がきれいにできているように感じられます。もちろんこれはアーティファクトですが,こ のため光顕レベルで核の無構造化などを特徴とするウイルス病(PAVなど)などを調べるとき には病変の起きた核と正常な核の違いが明瞭になるため,特に使いやすいといえます。

ほんとによく固定できる固定液は何?
 アコヤガイでの経験から,おそらく昇汞ホルマリンやDavidsonの固定液などの方がBouin液 などより固定力が強いと思われます。それでは魚でもBouin液よりDavidson液の方がよく固定 されるのでしょうか?試した限りではどうもその通りで,Davidson液のほうがBouin液よりわ ずかながら形態保持が優れているようです。したがって,現在私は魚でも一般的な形態観察の ためには原則的にDavidson液を使っています。
 これまであげた固定液を(私の感じた)固定の強い順に並べると,昇汞ホルマリン> Davidson>Bouin>10%ホルマリン,となります。では,この固定の強さとはいったい何なの でしょうか? おそらく固定が強いと感じられるものほど生体組織中のタンパク質等が分解, 溶出せずに標本中に保持されている程度が大きいものと思われます。おそらくそのせいもある のだと思いますが(他にも化学的な理由があるのでしょうが),強い固定液で固定したものほ ど,パラフィンブロックをミクロトームで薄切するときに組織が堅く,もろく感じられます。 このような固定液で固定した組織は5mm以上の厚さでは切片にチャター(ナイフの刃と平行に ひびが入る)ができやすく,3~4mm程度の切片の方がきれいに作りやすいという傾向があり ます(特に昇汞ホルマリン液)。したがって大きな切片をつくって低倍率で広い範囲を観察し たいときなどには不向きといえます。
 昇汞ホルマリン液というのは強力な固定液ですが,いくつかの大きなデメリットがあります 。まず,昇汞(塩化第二水銀)を含むため,固定後は重金属廃液として処理しなければならな いことです。次に固定した組織には水銀を含む微細な黒い粒子が沈着するため,切片をルゴー ル液等で処理しなければなりません(詳細は組織学の本を見ていただくか,問い合わせていた だければお答えします)。
また,昇汞のタンパク質凝固力は非常に強く,大きな組織片では表 面近くに凝固したタンパクの層ができてしまい,それ以上の液の浸透が悪くなるため,通常固 定する組織片は5mm以下の厚さにする必要があるということなどです。しかし,昇汞ホルマリ ンによる組織形態の保存はすばらしく,Bouin液などと異なり核のコントラストがそれほどで もないので,一見,見栄えがしないように思えますが,よくみると電顕用に樹脂包埋した組織 の準超薄切片のような感じのプレパラートが作れます。また組織の染色性も良好です(濃く染 まるという意味ではない)。したがって,ある程度細胞の内部を観察したいときや内分泌細胞 の染め分けをしたいときなどには最適で,下垂体などはHE染色のみでもある程度好酸性,好塩 基性細胞の染め分けができます。抗原性の保存も,ものにもよりますがBouin液より優れるこ とが多く,私の経験では下垂体の内分泌細胞の酵素抗体法で,Bouin液にくらべ一次抗体の濃 度を数倍薄めることができました。また,同様の目的で使われるBouin-Hollande Sublimateに くらべても形態の保存が勝っていると思います。
 さて,以上のように固定液でもさまざまな異なった性質や特徴があることがおわかりいただ けたかと思います。ここにあげたのはいずれもホルマリンを含んだ固定液で,これ以外にも数 多くの固定液がありますが私自身あまりいろいろな固定液を試したことがないので,比較的よ く使ってきたものについてのみ紹介しました。拙文がきれいな組織標本を作るための一助とな れば幸いです。 以下に各固定液の処方を示します。

Bouin液:ピクリン酸飽和水溶液75ml+市販のホルマリン原液25ml+氷酢酸5ml(使用直 前に混合)
Davidson液:95%エタノール33ml+市販のホルマリン原液22ml+氷酢酸11.5ml+蒸留 水33.5ml
昇汞ホルマリン液:飽和昇汞(塩化第二水銀)水溶液70ml+市販のホルマリン原液30ml (使用直前に混合)

(生物機能部生物特性研究室長)


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