中央水研ニュースNo.34(2004...平成16年11月発行)掲載

【寄 稿】
覚え書き
森田 祥

はじめに
 前任の企画連絡室長の中野広さん(現東北水研所長)から,OBの皆さんの持っているパワーを少しでも現職の人たちの仕事ぶりに反映せたいから,毎号の水研ニュースに寄稿して欲しいとOB会に依頼があったのは2003年の春のことでした。内容としては,単なる「思い出ばなし」ではなく,長い経験のなかで得られた大事なこと,伝えておきたいことなどを書いて欲しい,というのがその依頼の趣意でした。本誌32号に掲載された平野敏行さんが執筆された「海の匂い,浜のにおい」はそれに応えた最初のものでした。そして本号には,平野さんの指名で私が書くことになってしまいました。古希もとうに過ぎ,水産研究の現場からは遥かに遠くなってしまっている今の私には,依頼の趣旨に応えられるような能力はないと思いましたが,先輩が率先して頑張られたのでは仕方がありません。かつて資源研究の周辺で漂流していた当時の思考のいくつかを,忘れないうちに書き留めることでお役目を果たしたいと思います。近頃乏しくなっているといわれる研究者仲間内での論議の素材にでもなれば望外の幸せです。

漁業資源研究
 私は,在職中7つの海区水研のうち5水研に在籍しましたが,そのうち研究の企画・調整や所の運営・管理の役職にあった時を除くと,一貫して資源研究部門に身を置いてきました。自身では自然科学分野の研究者のつもりでいましたが,いつからか研究の対象がまさに漁業資源であって,海の魚(生物)一般ではないことを意識するようになっていました。つまり対峙している相手は「漁業生産が対象としている」魚なのです。改めて資源研究という意味を考えたものです。
 ある経済学者の先輩から,物をつくり出す経済活動は生産力と生産手段によって展開されているが,生産手段には,工場や機械,船や漁具のような労働手段のほかに,原料や資源といった労働対象も含まれる,ことを教わったことがあります。そう,資源とは生産の対象となって初めて資源なのであって,生産が見向きもしない「もの」は資源とはいえないのです。当たり前の話ですが,実は「資源」とはすぐれて社会科学的な概念であって,決して自然科学のそれではないのです。だからといって,私たち「資源」研究者は社会科学者であるべきだといいたいわけではありません。漁業資源研究の基盤はやはり生態学にあると思っています。対象である「魚」はやはり海の生物ですから,その生態を解明するという自然科学的アプローチの過程が資源研究における主要な道であることに間違いはありません。しかし,資源研究が取り扱うf(漁獲努力量)やF(漁獲死亡係数)といった基本的な概念の値が決して固定的なものでなく,人間の営む生産活動のなかで drasticな変化を示す実態をみても明らかなように,私たちは漁業という生産活動の具体的内容について強い関心をもつべきだし,その変動の仕組みに対する社会科学的な視点を決して忘れてはいけないことをいいたいのです。

漁業資源の特性
 水研は産業試験研究機関といわれ,水産業という産業に対応する研究活動を行ってきました。しかし,一括りに水産業といっても,漁業,養殖業,水産加工,保蔵,流通等々のそれぞれの産業の仕組みはかなり質を異にしています。ここでは漁業生産に,特にその資源について視線を向けて考えてみます。
 実は漁業資源には他の産業のそれとかなり異なった特性があります。そのひとつは,漁業が対象とする資源は本来誰の物でもないが漁獲した途端に私有物になるという点です。資本主義経済のもとでは生産手段(労働手段,労働対象)は私的に所有されている,と教わったのは前出の経済学者からですが,確かに「資源」は所有者,管理者が特定されているのが一般的で,鉱物資源などがまさにそうです。ところが,漁業の場合では,船や網などの労働手段は私的に所有されていますが,労働対象の資源は原理的には「無主物」で,漁獲された途端に私的所有物に転化するという特性を持っています。したがって,他より先に獲れば私有できる,という漁業では他との競争が必然的なものとなります。すなどりの時代はともかく,現今の漁業生産では,技術発展に伴う生産力の増加が競争を激化させ,乱獲を導き,資源を衰退させる危険を常にはらんできました。
 漁業資源のもうひとつの特性は周期の短い更新性をもつ生物である点です。この特性こそが資源管理による「持続的」生産を保障し,無限の富の供給を可能にさせることはいうまでもありません。しかし,資源管理については,60年代以降研究者たちがその必要性を先駆的に,積極的に発言してきたもののものの,実は,わが国において「管理型漁業」という言葉が市民権を得るようになってからそれほど長い時間は経っていません。

漁業という産業
 ところで,わが国における近年の産業経済分野での社会的動向をみていると,経済効率優先,自由競争原理,規制緩和などのキーワードが躍っています。たとえば経済効率の向上のためには,一般的には,生産効率を高めて生産量を増やす方向が追究されます。ところが,対象資源の量を一定以上増やせない管理型漁業では増産という手法を適用することはどだい無理な話ということになります。
 かなり以前の米国で(資本主義生成期の頃のことと思いますが)pulse fisheriesというものがあったと聞いたことがあります。ある資源が豊富に存在し需要が見込めると判断すると,資本を一時的に注ぎ込んでその資源を集中的に漁獲する,漁獲は効率のよい期間だけ,時には取り尽くすまで行われ,終われば船や漁具を売り払い,利潤を手にした後別の投資先を探すというやり方です。漁獲が非持続的で瞬間的にあげられることからその名がついたとのことです。持続的生産という概念が重視されている今日では,高い投資効率を漁業に求めるこうしたやり方は国際的にもとうてい容認されません。
 ルールを定めて自由競争の激化を抑え,生産に計画性を導入するのが管理型漁業の手法だとすれば,その展開は競争原理の導入,規制緩和といった今風の経済施策の潮流とは全く正反対だということになります。つまり,経済効率優先の自由経済の産業政策のもとでは,漁業という産業は原理的に存立し難い存在といわざるを得ません。
 最近,魚住雄二さん(遠洋水研)が書かれた「マグロは絶滅危惧種か」(成山堂書店)を読みました。資源研究者の視点から,問題点をきちんと整理して分かりやすく叙述した労作です。この本の終りの方で著者は,資源管理を強化することによって漁業が成立しなくなるようでは資源管理の意味がない,ことを指摘しています。私は,漁業が産業として存立するためには,工業,サービス産業などの産業政策とは異質の政策的保護が必要だと思うのです。持続的生産による無限の富を人類に与えることができるから資源管理が行われるのですから,その実効性を保障できるような手厚い保護施策があって良いのではないでしょうか。日本の漁業という産業は国民の基本的食料の生産を担っている食料産業だからこそその資格があると思うのです。自給率の低下がこれ以上進んでよいのでしょうか。国民の食料は,他の産業を振興させて儲けたお金で外国から買えば良い,と考えるなら論外ですが…。

科学・技術の研究
 昔,英国の科学史家バナールが科学を定義することはできない,そのいくつかの性格は示すことはできるが,と述べていましたが,私は単純に,科学は自然の(社会の)運動の法則性を明らかにする活動だと思い込んでいます。そして,その法則性を生産に意識的に適用するのが技術だと。しかし,私たちのそれぞれの研究活動は,より基盤的,より応用的とみることはできても,それが科学なのか技術なのかを厳密に区分することはあまり意味がないと思います。ただ,「役にたつかどうか」が評価の基準となるとすれば,小柴昌俊氏がいわれたように,また,科学史が教えるように,科学・技術研究の発展は間違いなくゆがむことでしょう。舌足らずですが,紙数がつきました。今,プラグマティズム(実用主義)が当たり前のことのようにはびこっていることが心配だ,とだけ記して筆をおきます。

(2004.1.記・元企画連絡科長)

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