中央水研ニュースNo.33(2004...平成16年3月発行)掲載 |
【寄 稿】 海の匂い,浜のにおい
平野敏行
先日,古い資料を整理していたら,“月島”という冊子が出てきた。昭和55年12月(創刊号)とあり,当時東海区水研のOBの集まりであった月島会(会長天野慶之)の機関紙である。その中に,「潮文字・魚紋抄より,宇田道隆」とあって,昭和の初めごろ蒼鷹丸で詠まれた和歌を中心に,五十首ばかりが載っていた。その最初の一首「わが一と代海の記憶の数々はふなべり流る夜の蛍火」に心を惹かれた。昔々,八丈観測と称してほとんど毎月のように東京―八丈島―下田間を定線観測していた頃,房総の灯りが見えていただろうか,御蔵島あたりだっただろうか,青臭いにおいがする稚魚ネットの処理を終わって,ゆっくり動き出したデッキに半分体を乗り出しながら夜光虫を追っていたのを懐かしく思い出していた。 宇田道隆先生は言うまでもなく,東海区水研の初代所長である。昭和の初期,農林省水産試験場時代の蒼鷹丸で日本近海の海洋調査を何度も行い,黒潮や親潮,そして潮目等の実態を科学としてはじめて明らかにした研究者で,わが国の海洋研究を築き上げた数少ない先達の一人である。昭和36年ごろ,漁業者との対話を掲げた水産海洋研究会の立ち上げには,私も先生のお供をして歩いた。松江吉行先生,中井甚二郎先生,それに,斎藤泰一,丸茂隆三両先輩とともに6人が呼びかけ人で発足した。当時,100人であった会員も今では,1,000人近くになり水産海洋学会として昨年40周年を迎えた。英文の国際誌も出版され国際的な評価も高い。昭和40年頃であったと思う。IOC-WESTPACの黒潮共同調査(CSK)に参加していた頃,当時東水大の教授であった宇田先生や斎藤先生と海鷹丸で一緒に八丈島周辺の調査に参加したことがあった。私同様決して船にお強いわけではない60歳を超えた老大家も,われわれ若い者と一緒になって私が八丈島周辺にまいた漂流はがきの行方を追いかけながら,歯を食いしばって観測に参加されていたのが印象的だった。思えば,私も船にはよく乗った。先日の中央水研同窓会で奥谷喬司さんから「あんたは船に弱かったね。」といわれたけれど,220トンの天鷹丸で3ヶ月の北洋調査をはじめとして北洋へは夏冬4回,日本近海や沿岸域ではほとんど毎月のように海へ出ていた。河川水や排水拡散の調査研究では河口域や内湾の現場を駆けずり回り,再生産に関わる卵稚仔輸送の研究では,CSKの一環として,東海,西海,南西3海区水研の海洋部が協力し蒼鷹丸,陽光丸,そして俊鷹丸に水産航空のセスナ機が参加して足摺岬の沖から房総沖までの黒潮域漂流一斉調査(昭和41年~43年)を行った。「黒潮の流軸が数時間の間に何哩も移動すること」,「黒潮北辺の潮境(潮目)の両側で投入した海流瓶の群が見事に潮目に収斂して,ほぼ一列になって紀伊半島の沖から伊豆の沖あたりまで殆どそのまま一緒に漂流していたこと」,「順調に黒潮に乗って漂流してきた蒼鷹丸が八丈島の近くで急に動かなくなった(海流がなくなる)こと」,「まもなく別働隊の俊鷹丸が八丈の東側を北上する強い流れ(黒潮か?)を発見したという報告を受けたこと」等々。その他すぐには論文にはならないけれど,有形無形の様々な情報や得がたい体験をともにした。この調査は若い藤本実君が主役で,杉浦健三さん,井上尚文(当時西海区)さん,川合英夫(当時南西海区)さんなどとの共同研究のひとつであった。 一方,木村喜之助先生は徹底して船には乗らない人であった。昭和22年10月1日私は月島の農林省水産試験場の木村研究室へ入った。翌日から棒状温度計と記録紙帳を持って対岸の築地の魚市場へ日参した。入港するカツオ船やサンマ船から水温や漁獲の情報を取るためだった。翌年春にはそのために焼津に一ヶ月一人で駐在したこともあった。夏のシーズンには研究室をあげて石巻や気仙沼へ大移動。市場に入港する漁船から情報を集める。そして,午後には水温分布図の上に漁場図を画いて翌朝漁船にわたす。市場で漁業者から貰うカツオやサンマは大事な共同生活の糧の一部でもあった。「これが研究か?」と前途に不安を感じないわけではなかったが,木村先生には漁労長や漁業者とのやり取り,対話はそのまま漁業の生々しい現場の中で仕事に取り組んでいるという感覚だったのではないだろうか。東北水研での漁場知識普及会の仕事,そして現在の漁業情報サービスセンターの仕事はその延長上にあるものであろう。宇田先生には「海の匂い」が有ったというのなら,木村先生には「浜のにおい」が有った。 私は木村先生について東北水研へは行かなかったけれど,昭和25年8海区水研が発足するまでの農林省水産試験場時代には,木村先生から実に多くのことを教えられ,多くの貴重な機会を与えられた。昭和23年の夏,塩釜から乗船した東水大の神鷹丸の三陸沖での練習航海が私の処女航海であったが,この時一尾も獲れなかったカツオを,すぐその後で乗せてもらった気仙沼唐桑の漁船では,三日もしないうちに満船して帰ってきた。神奈川水試の相模丸では,サンマの棒受網もやった。ちょうど流し網から棒受に切り換わるときであった。夜通しスルメイカ漁に熱中したこともあった。県の船といえば,千葉県のふさ丸で本城康至さんと二人で観測に出かけたし,明神礁で沈んだ水路部の第5海洋丸にも1航海乗せて貰って観測の勉強をしたこともある。魚はカツオ,サンマのほかに,北洋ではサケの延縄の試験操業にはじめて成功したのも天鷹丸での航海だった。この時には,ベーリング海でトロールもやった。30分でボンと網が浮き上がってきて,スケソウ,マダラ,赤魚のほかにカレイ,カニそしてハリバットなどいっぱいであった。 いずれにしても,私は短い期間ではあったが,試験場時代の調査研究が海と魚,そして漁業に対していかに実践的なものであったかを垣間見たように思っている。時代が違うといえばそうかもしれない。戦後は,「乱獲」と称して「漁業管理」に関する取り組み,統計資料に基づく資源研究,資源解析学的な研究が主流となった。海区水研は海区の資源研究が主で,漁業技術の改善指導や資源の有効利用,ましてやお金のかかる海洋環境の調査研究は片隅におかれていた。その後,水質汚濁や海洋汚染による漁業への影響の問題や異常冷水などによる漁海況予報事業の復活など,今では海洋環境研究の重要性は認識されているようだけれど,それでも1970年前後における海洋開発ブームにおいては,水産庁として水研がこの問題に確りと対応していたといえたであろうか。新魚種,新漁場の開発,漁船漁業における新技術の開発などの役割を担って,海洋水産資源開発センターが発足し,沿岸浅海域の増養殖事業の開発を目指して,栽培漁業協会ができたのも,さらに漁業情報サービスセンターも海洋生物環境研究所もみんな1970年代に入って水研とは別の組織として設立され,すでに30年それぞれに大きな役割を果たしてきている。 200海里時代になって,水産物の持続的な安全安定供給を目標に独立行政法人水産総合研究センターの役割は益々重要であることはいうまでもない。さらに,海洋の研究も50年前とはすっかり様変わりしてグローバルな規模での国際的な海洋観測や共同研究が企画され,進められるようになってきている。学術月報2003年5月号には,「海洋研究―人類の未来のために」という特集が組まれていて,わが国の第一線の錚々たる研究者の方々によって,それぞれの分野の最近の研究成果と21世紀の展望が紹介されている。アルゴ計画という壮大な海洋観測の話,表層漂流ブイや人工衛星海面高度計による広域海流調査や流速の係留観測など素晴らしい技術を駆使した最近の黒潮研究の成果,黒潮変動をはじめ海況変動予測の数値モデルへの思いなどなど,わが国の海洋研究の現状と将来への期待は大きい。しかし,それでもなお,私のどこかに「海の匂い,浜のにおい」への郷愁が残るのは何故だろう。特に,海洋の生物資源の生産に関わる海洋研究の分野では,ここ30年や50年ではまだまだわれわれが知り得ていない本当に多くのことが残されているのではないだろうか。 もう10年余り前のことになるだろうか,トキワ松短大の造形美術科長をしておられた現代工芸(鋳金)の第一人者で,その後文化勲章を受章された故帖佐美行先生と短大の卒業制作展の折,お話をしたことがあった。「このごろの子供は写生をしなくなりましたね。写生は大事なんです。自然にはひとつとして同じものがないんですよ。どんなにいいものでも,大量生産された同じ物はつまらない。」と言われるのを聞いて,自然科学者の一人としてハッとする思いであった。しばらくして,地球サミット,アジェンダ21などの地球環境問題で,温暖化や海洋汚染などとともに生物多様性が注目されるようになった。思えば,地球にも自然にもそして海にも同じものは一つもないし,同じことは二度起こらない。海のことは毎日海へ出て仕事をし,生活がかかっている漁業者にしくものはない。漁業者は漁獲をあげなければならないから資源を育て,海を大事にすることを忘れない。われわれの仕事が,毎日変化する海で仕事をする漁業者に受け入れられるとき私は本物であると思ってきた。漁業者は,これは使えるというものは少々高価であっても必ず装備する。昔,北洋調査に出た頃,漁場探査にBTが欠かせなかった。深さ100m前後の躍層の存在が決め手であった。出航前何人かの船団の漁労担当者に話したことによるものかどうかは分からないが,多くの北洋船団はみなBTを使うようになったと聞いたことがある。その頃,シーズンが終わると,私の部屋にはサケが何尾も入った箱が幾つもおくられてきた。私は今でも,水産研究所や試験場には漁業者がいつも出入りし,漁業者に信頼されるところであって欲しいと思っている。 まもなく,独立行政法人水産総合研究センターに従来の研究所に加えて,海洋水産資源開発センターと(社)日本栽培漁業協会が統合されると聞いている。時代とともに組織は変わるものであろう。しかし,私はどんなに時代が変わってもどんなに社会が変わっても,海の研究,海洋生物資源の研究は海の生物資源を有効適切に利用するためであり,海の生物資源を有効適切に利用することはそのまま海洋環境の保全であると信じて疑わない。そして,その原点は漁業の発展とともにあるに違いないと思っている。 (元東海区水産研究所海洋部,2003年8月10日記)
Toshiyuki Hirano |