中央水研ニュースNo.26(2001.10発行)掲載

【研究情報】
環境放射能における謎,ビスマス-207(Bi-207)
鈴木 頴介

 1980年10月某大手新聞紙上において1955年~1968年に科学技術庁主導で,少量の低レベ ル放射性固体廃棄物が相模湾,駿河湾及び房総半島沖に試験的に投棄されていた事実がややセンセーショ ナルに報道された。この事実は,既に1971年国会で取り上げられていたにも関わらず,初めて明らか になったかのように書かれていたため,一時大きく問題化された。試験投棄に携わった専門家によれば, 投棄された放射性核種はCo-60のみということであったが,たまたま相模湾の海底土からCo-60が検出 されたので,まさに投棄によるものではないかと一部の新聞は疑いを抱いた。しかし,Co-60が検出さ れた地点ではそれをはるかに上回る値のCs-137が検出されていた。Cs-137は核実験による放射性降 下物(フォールアウト)の代表的な核種であり,多くの環境試料中で検出されているので,ここで見つか ったCo-60もフォールアウト起源と見るのが専門家の一致した意見であり,事件はそれ以上問題とされる ことなく終息した。しかし,このようなことがあったので,当研究室では蒼鷹丸による臨時の航海を組み, 上記3海域の海底土を採取し,試料のγ線核種分析を日本分析センターに依頼した。結果は,相模湾の試料 からCs-137,Co-60,Sb-125が検出されたが,既往のデータと比較して問題のない濃度であり,こ れらはフォールアウト起源であると考えられた。この時,これらの核種が検出された地点で,Cs-137に 次ぐ高い濃度でBi-207が併せて検出されたのが,同核種の存在を知ったそもそもの始まりであった。
 その後,1980年代中・後期に蒼鷹丸による航海によって,北はオホーツク海から南は南西諸島海域ま で,広く我が国周辺の沿岸海域から,柱状採泥器によって海底土試料を採取する機会を得た。採取された8 0点近くの試料の分析結果から,Bi-207は相模湾のみならず,日本周辺海域の海底土にCs-137と共に 広範囲に分布し,Cs-137の数%から半分程度,稀にはCs-137以上の量で存在していることが明らかと なった。採取された柱状の海底土を,一定間隔(ここでは2cm)毎に切断し,それぞれ放射能分析を行って 核種の鉛直分布を求めれば,過去の蓄積の状況を知る事が出来る。一例として,相模湾内の1地点において 検出された各人工核種の鉛直分布を,右端に各堆積層の年代も記して,図示する。ここでは,Bi-207は Pu-239,240と共に,Cs-137の半分近く存在している。環境中のCs-137についてはこれまでに多 くの報告がなされ,同じ様な起源のSr-90と共に,我々には古くからなじみが深い。これに対して, Bi-207は報告例が極めて少なく,環境放射能の専門家の間ですらその存在はほとんど知られていない。図 で例示したような鉛直分布から,各地点毎にBi-207の蓄積量を求め,全地点をオホーツク海,太平洋側 東北沿岸域というふうに海洋学的に特徴のある海域別に区分して比較を行うと,浦賀水道・相模湾が際立って 高かった。海底土への人工核種の蓄積は,供給量が同じでも,粒径,化学組成,また堆積量に大きく左右され るので,このような比較を行う場合には海底土の蓄積能力についての何らかの基準化が必要であると考えた。 このため様々な方法を模索したが,自然放射性核種のPb-210を用いることで良好な結果を得た。
 Pb-210で基準化されたBi-207について,海域間の比較を行ってみると,他の主要な核種であるCs-137或いは Pu-239,240において見られるほどの海域差が存在しないこと,また陸上からの影響をほとんど受けてい ないことがわかった。この結果と,大気からの降下物(雨水,塵など)についてBi-207の報告例が全くな い事実も併せて考えると,Bi-207は日本周辺海域において全体的にかなり均一混合化されて分布しており ,しかも海洋起源であることがほぼ確定された。従って,もし同核種が我が国周辺の海底土にのみ多く存在 しているとしたら,環境放射能上の一つのミステリーといえる。
 現在,地球環境においてBi-207の存在が僅かに報告されているのは,北極海上の旧ソ連の核実験場ノバ ヤゼムリャ島及び太平洋上のアメリカの核実験場であったビキニ・エニウエトク環礁においてである。他に 有力な汚染源は見あたらないが,このうち北極海のはヨーロッパロシアに近く,はるばる北極海,ベーリン グ海を経由してやってきたとは考えにくい。従って想像を逞しくすれば,日本周辺海域に存在している Bi-207はビキニ・エニウエトク環礁から北赤道海流及びその続きである黒潮を経由して運ばれてきたので はないかということになる。これを十分に裏付ける程のデータはないが,かなり均一化されているとはいえ ,上記Pb-210で基準化されたBi-207の海域間の差をもう少し詳細に見ると,浦賀水道・相模湾,太平 洋側中部沿岸域>太平洋側南西沿岸域,東シナ海>太平洋側東北沿岸域,日本海>オホーツク海という傾向 が認められること,さらに,一例ではあるが北赤道海流上の東マリアナ海盆の深海域で採取した海底土から Cs-137は検出されないのにBi-207が検出される(このような例は他にはない)という,肯定的なデー タが得られている。この推測を一層確実なものとするためには,黒潮源流域,出来れば旧実験場にまで遡る 航海を組んで,必要量の試料を採取する事が最善であろうが,それは将来の課題である。現在は,環境中の 人工核種の起源を探る有力な手法として着目されつつあるPuの同位体比についてのデータを得,この方面か らの可能性を探っている。
 最後に,それではBi-207はどうして環境中に放出されたのだろうか。同位体のBi-209は,安定な, すなわち放射性でない元素の中で最も重いものとして地球上に存在している。他にウラン系列からBi-214 が,トリウム系列からBi-212が,アクチニウム系列からBi-215が自然放射性核種として生成される。 しかし,Bi-207は全く人工的に造られたものである。核爆弾は,通常核燃料の廻りにタンパーと呼ばれ る物質を配置している。爆発の基となるU-235或いはPu-239の核分裂反応を,爆弾が飛び散る前に出 来るだけ長く維持することが爆弾の効果を高めることになるので,極めて短時間ではあるが爆発を封じ込 める事の出来る質量数の高い重い物質をこのために使用する。何をタンパーとして使うかは,国によって ,時期によって異なるらしいが,安定なBi或いはPbの同位体を使った時に,それらが中性子或いは重陽子 によって放射化され,Bi-207が生成されるというのが現在のところ提唱されている有力な考え方である。

(海洋生産部海洋放射能研究室長)

グラフ
相模湾の海底土(1984年採取、推進1500m)中の人工放射能性核種の鉛直分布


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