はじめに
近年、「環境ホルモン」と称される汚染物質が野生
生物や人体の生殖に影響を及ぼす可能性が問題と
なっており、マスコミにも取り上げられて大きな話
題となっている。しかしながら、この問題に関して
はいささか過剰気味の報道があり、用語にしても、
言葉のみが先行して正確な概念の理解が不足したま
ま使用されている現状がままあるので、この場を借
りてこの問題の理解のための情報を提供したい。特
に、このような新しい概念の汚染物質に関する研究
は、環境保全分野の研究者のみならず、内分泌学、
生殖生理学、資源生態学などの多様な分野の研究者
の協カが必要である。この機会に多くの研究者がこ
の問題に関心を持っていただければ幸いである。
「環境ホルモン」とは
「環境ホルモン」とは学術用語ではなく、内分泌攪
乱物質(Endocrine Disruptor)と総称される汚染
物質の、くだけた形での別称である。内分泌攪乱物
質とはホワイトハウス科学委員会の定義によれば、
「生体の恒常性、生殖、発生あるいは行動に関与す
る種々の生体内ホルモンの合成、貯蔵、分泌、体内
輸送、結合、そしてホルモン作用そのもの、あるい
はそのクリアランス等の諸過程を阻害する性質を持
っ外来性の物質」であり、要するに生体内のホルモ
ン作用を変化させるものはすべて該当するため、広
義に解釈すれば非常に広い範囲の物質が該当する可
能性がある。しかしながら、現在問題となっている
ものはこの中でも、環境エストロジェン、ダイオキ
シン類、及び有機スズ化合物の3種類の範ちゅうに
含まれる物質が大部分である。これらの物質は性質
や作用様式が全く異なるにも関わらず、「環境ホル
モン」としてひとまとめにされることで、専門家以
外の人々に対して混同を引き起こし無用な混乱の原
因となっているようにも見受けられる。
1)環境エストロジェン
環境エストロジェン(外来エストロジェン、ゼノエ
ストロジェン)とは、エストロジェンリセプターと
特異的に結合してエストロジェンのアゴニスト(作
動薬).またはアンタゴニスト(遮断薬)として働く
環境汚染物質のことであると定義できる。厳密な定
義はともかくとして、平たく言えば環境中に含まれ
るエストロジェン類似作用を持つ汚染物質のことで
ある。エストロジェンは脊椎動物において雌に特異
的に見られるステロイドホルモンであり、雌の生殖
に重要な役割を果たすが、具体的な作用は動物種に
より様々である。哺乳類では雌の発情、生殖付属器
官の発達等を支配している。魚類、鳥類など卵黄を
多く含む卵を産む動物では、生殖腺の分化、生殖付
属器官の発達を支配するとともに、肝臓に働き、卵
黄前駆タンパク(ビテロジェニン)を合成させる。
主な環境エストロジェンを大別すると、有機塩素化
合物、脂溶性芳香族化合物、植物エストロジェンに
分けられる。これらの物質は生体内や環境中での挙
動に関して大きな差があり、魚類を含む野生生物へ
の有害性、懸念される人体への影響に関しても多様
性が大きい。DDTやPCBに代表される有機塩素化合
物は環境中での残留性、生物への蓄積性がともに高
いため、エストロジェン活性をもつものがいったん
環境中に放出されるとその影響は大きい。DDT類で
汚染されたフロリダの湖におけるワニの生殖異常
(現在のところ最も確実な環境エストロジェンの野
生生物の生殖に対する悪影響)を典型例として、魚
類を含む野生生物における様々な生殖異常の原因物
質として疑われており、食物連鎖を通じて人体への
影響も懸念される。目本においては幸いにしてこれ
らの物質による環境汚染が非常に軽度であるため、
深刻な問題とはなっていないが、欧米や一部の開発
途上国では最も問題視される物質群である。エスト
ロジェン活性を持つ脂溶性化合物としては、アルキ
ルフェノーノレ類、ビスフェノールA、フタル酸エス
テル類などが挙げられる。これらの物質は、残留性
や蓄積性はあまり大きくなく、イギリスの一部の河
川のような高濃度汚染区域を除いては、魚類資源に
対する差し迫った危険性はさほど高くないものと推
察される。しかしながら、プラスチックの原料や添
加剤として大量に使われているものがあり、非常に
普遍的な物質でもあるため、慢性影響、特に魚類の
成熟再生産への影響に関して今後注意深く研究を進
めて行く必要がある。植物の体内にもステロイド化
合物があり、その一部はエストロジェン活性を示す
ため植物エストロジェンと呼ばれる。豆類や針葉樹
等に多く含まれ、前者では人体への影響を考慮すべ
きであるが、少なくとも大豆食品を従来から多食し
てきている東洋人においては健康上むしろ有用との
考えが大半のようである。しかしながら、欧米人に
おいても同様であるかどうかについては議論の分か
れるところである。後者ではパルプ廃液などを通じ
て環境中に放出され、水域生態系への影響が考えら
れる。パルプ廃液で汚染された水域における魚類の
生殖または内分泌の異常に関する報告は多く、植物
エストロジェンが関与している疑いがあるが、はっ
きりしたことはほとんどわかっていない。パルプ廃
液の組成は非常に複雑であって、物質の同定が進ん
でいないことが問題であり、今後、分析化学的な解
析と影響機構解明の両方を組み合わせた研究推進が
求められよう。
この他に経口避妊薬に代表される医薬も環境エス
トロジェンの侯補として挙げられる。一方、人体中
にも当然ながら天然エストロジェンが含まれ、その
ほとんどは最終的に尿中に排泄される。従って下水
処理場排水等を通じて環境中に放出される天然エス
トロジェンの影響も考慮すべきである。この際、存
在するエストロジェンが活性型(遊離型)かグルク
ロン酸や硫酸と結合した不活性型かを区別して考え
る必要がある。
環境エストロジェンが魚類資源に及ぼす影響に関
する研究の推進方向に関しては、水域のモニタリン
グと成熟再生産への影響評価の二つの面から考える
ことが出来る。ビテロジェニンに代表される雌特異
性血漿タンパクは正常な雄ではほとんど産生され
ず、事実上エストロジェンのみによって誘導される
ため、水域における環境エストロジェンのモニタリ
ングにはとても良い指標である。通常の適用方法と
しては、雄または幼魚を用いて血漿中のビテロジェ
ニンをエンザイムイムノアッセイ等によって測定す
るか、肝臓中のビテロジェニンmRNAをノーザンハ
イブリダイゼーション等によって検出する。ただ、
この際注意しておかなければならない事は、雄にお
いてビテロジェニンが合成される事と雄の生殖機能
には直接には何の関係もないということである。ビ
テロジェニンは単なる卵黄前駆物質であり、それ以
外の生理作用を持たない。もちろん雄の生殖巣を雌
性化する働きも無い。環境エストロジェンが実際の
魚類の再生産過程に及ぼす影響を知るには、生殖腺
重の測定や生殖腺の組織学的観察によって成熟度を
判定し、産卵量、孵化率、孵化仔魚の生残率などを
調べるという本来の方法によらなければならない。
エストロジェン類似物質の影響は、幼少期の暴露の
影響が、その個体が性成熟に達して初めて現れる可
能性があり、精密な影響評価には全生活史を通じた
慢性毒性試験を行なう事がどうしても必要になって
くる。この目的のためには、ゼブラフィッシュ、メ
ダカ、マミチョグ(北米原産のメダカ目広塩魚)等
を用いることができる。硬骨魚には特有の問題とし
て、天然の雌雄同体現象と水温条件による性比の変
動とがある。硬骨魚類には機能的雌雄同体現象(い
わゆる両性具有と性転換)を示すものが多く、8目
37科にわたっている。なかでも、ハタ科、スズメダ
イ科、ベラ科、ブダイ科においては大部分の種類が
該当し、タイ科においてもその種類は多い。機能的
雌雄同体現象を示す種類の性比は当然のごとく1対
1にはならず、年齢や社会的地位などによって変化
する。また、少なくとも性転換の中途段階では両性
生殖腺が出現する。したがって、これらの魚種では
性比や両性生殖腺の出現によって環境エストロジェ
ンの影響評価を行うことは非常に困難であり、調査
には特別の注意が必要である。機能的雌雄同体現象
を示さない普通の雌雄異体魚であっても仔稚魚期に
は両性生殖腺を持つものがある。これは幼時雌雄同
体現象と呼ばれ、性分化の初期にはすべての魚が卵
巣を持ち、その後、約半数の個体の卵巣が退化して
精巣に置き換わるものであって、ゼブラフィッ
シュ、コイ、キダイ、チダイ、マダイ等該当する種
類は多く、硬骨魚ではかなり普遍的な現象である。
このような種類においても、環境ホルモンの影響を
評価するに当たっては対象魚の生殖腺発達段階に十
分な注意を払う必要がある。通常の雌雄異体の魚で
は遺伝的性が存在し、その性比(生まれたときの)
は1対1であると考えられる。しかしながら、実際
の性比(表現的性の性比)がどちらかに大きくずれ
ることがある。この現象は水温などの環境条件に起
因するものと考えられており、性比を指標にして環
境エストロジェンの影響を調べる際にはこのことも
十分に考慮する必要がある。さらに、生まれたとき
の性比が1対1であっても、魚が成熟に達すると分
布域、行動、生残率、成長などの差によって実際の
サンプルの性比がこれよりも偏る可能性が大きい。
したがって、天然水域における性比の異常の検出に
は初回成熟以降の魚は一般に不適当と考えられる。
2)ダイオキシン類
ダイオキシン類(ポリ塩化ジベンゾーp一ダイオキシ
ンとポリ塩化ジベンゾフラン)はPCBと類似した構
造を持つ有機塩素化合物であるが、逆に抗エストロ
ジェン作用を示す。この作用はエストロジェンアン
タゴニストとしての作用によるものではなく、Ah
(アリルハイドロカーボン)リセプターと呼ばれる、
対応する生体分子が見つかっていない特別なリセプ
ターを介した複雑かつ独特の機構による。したがっ
て内分泌攪乱物質の一種ではあるが、環境エストロ
ジェンとは異なる範ちゅうの物質である。ダイオキ
シン類はその起源(意図的な製造物ではなく、主と
して塩素を含む物質の燃焼によって非意図的に生じ
る物質である)、環境中の濃度と毒性(環境中の濃
度は極めて低いが毒性も著しく強い)、作用機構
(上記の抗エストロジェン作用の他に免疫抑制など
多様な作用を示す)から考えて非常に特徴的な汚染
物質であり、環境エストロジェンとひとまとめに論
じることは適当とは言えない。魚類資源に及ぼす影
響に関してはほとんど調べられていないが、取り扱
いの難しい物質でもあり、哺乳類への影響に関する
研究が著しく先行している現状も止むをえないと考
えられる。
3)有機スズ化合物
近年の報道によっても広く知られているとおり、船
底塗料などに使われる有機スズ化合物は低濃度でも
巻貝の成熟を著しく阻害する。成熟阻害においては
インポセックスと呼ばれる雌の雄性化現象が特徴的
である。この現象は雄性ホルモン作用を介している
ものと推察されており、本物質が貝類における内分
泌攪乱物質である可能性は高い。しかしながら、こ
のような作用は魚類を含む脊椎動物では全く確認さ
れておらず、現在のところ脊椎動物に対する内分泌
攪乱物質とは言えない。ただし、機構は不明である
が、少なくとも一部の魚類において雄の生殖腺発達
をかなり特異的に阻害する。
おわりに
内分泌攪乱物質は広い概念の汚染物質であり、今
後、新たな範ちゅうに含まれるものも登場してくる
可能性が高い。現在、問題になりつつあるものとし
ては、物質名は明らかとなっていないが、アンドロ
ジェン類似物質、甲状腺ホルモン阻害物質などが挙
げられる。また、ホルモンの概念自体も固定したも
のではない。古典的ホルモン以外の細胞間情報伝達
物質(局所ホルモン、サイトカイン等)まで含める
と、例えば免疫系に影響するような汚染物質(DDT,
PCB、ダイオキシン類、トリブチルスズ化合物など、
前述の汚染物質にも該当するものがかなりある)も
内分泌攪乱物質に含まれてくる可能性がある。今後
は内分泌攪乱物質に関する研究への要請はますます
増えてくると思われるが、このような物質の作用の
多様性を考慮した上で幅広い研究を進めて行くのが
望ましい。
(環境保全部生理障害研究室長)
nrifs-info@ml.affrc.go.jp
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