【研究情報】

マイワシのシラス期以前と以降の生残指数の年変動について


須田真木

マイワシは資源変動の大きい魚種である。日本における漁獲量をみると、1930年代に大きなピークがみられたが、1940年代には急減した。漁獲量は1970年代に再び増加を始め、1980年代は220万~450万トンの高水準で推移したが、1990年代に入ると顕著に減少し、1994年には119万トンになった。

1980年代に続いた資源の高水準が急激な減少傾向に転じた原因は今のところ不明である。海産魚類の資源変動は一般に加入量の変動によるところが大きいと考えられるため、この原因を解明するには、仔稚魚期の個体群動態を明らかにする必要がある。
このような主旨から平成3~6年にかけて水産庁資源課の委託事業「マイワシ資源等緊急調査」の一環として神奈川、静岡、愛知の各県によってシラス分布調査が行われ、中央水産研究所数理生態研究室がそのとりまとめを分担した。その成果の一部をもとにマイワシ仔稚魚期の年変動について解説する。

日本周辺のマイワシは、太平洋側では九州南部から関東近海で産卵し、シラス期には遠州灘、渥美外海にその一部が来遊し、シラス船曳き網によって漁獲される。遠州灘におけるシラス漁獲物の全長は主に20mm台である。マイワシシラスの豊度は、この遠州灘、渥美外海における漁獲情報と、更に黒潮の流況などを加味して推定されたマイワシシラスの太平洋域における資源全体の相対豊度を用いた。

ここでは、1979~1992年のマイワシシラスの豊度を日本の太平洋岸でのマイワシの産卵量、並びにいわゆる太平洋系群の加入量指数と比較することでシラス期以前と以降の生残指数(絶対量での比較ではないので、率ではなく指数となっている)の年変動を示す(図1)。


図1.シラス期以前と以降の生残指数SIの年変動

シラス期までの生残指数は1985年以前は年による変動が大きかったが、1986年以降は1985年以前に比べて年変動が小さく、一貫して低水準であった。その中でも1990年以降は一層、低水準となっていた。シラス期以降の生残指数は1987年以前はそれ以降と比べて生残指数がかなり高かった。1988年以降はシラス期以降の生残指数は一貫して低水準であった。

シラス期以前と以降の生残指数をそれぞれの相対的な高低で分類すると大まかに以下の3群に分けられた(図2)。


図2.シラス期以前と以降の生残指数SIの関係
図中の数字は年を示す。---はSIの平均値を示す。
記号■,□,○がそれぞれ、本文中のグループ(1),(2),(3)に対応している。

(1)シラス期以前の生残指数が低く、シラス期以降の生残指数が高かった年
1981、1982、1985、1986、1987
(2)シラス期以前の生残指数が高く、シラス期以降の生残指数が低かった年
1979、1980、1983、1984
(3)シラス期以前、以降共に、生残指数が低かった年
1988、1989、1990、1991、1992
すなわち、1988年以降はシラス期以前、以降共に生残指数が低かったのに対し、それ以前は、シラス期までの生残指数が高く、シラス期以降の生残がそれほど高くない場合とその逆の場合に分けられた。シラス期以前、以降の生残指数が両方とも高い年は見られなかった。

シラス期までの生残指数が低水準となった1986年以降は産卵量が多い年が多かった。シラス期までの親仔関係をみると産卵量(すなわち親魚量)は1986年以降増えたのに初期生残が悪化したことを示している。ただし、1992年、1993年は産卵量(すなわち親魚量)が低下しても初期生残はそれほど回復していない。

1979~1992年はマイワシの資源変動でみると高水準期から減少期に当たる。資源の高水準期であった1987年までは生残指数は年々大きく変動し、シラス期までの生残指数が高い時はシラス期以降の生残指数は低いか、また、その逆であった。資源が減少傾向へと向かった1988年以降はシラス期以前、以降とも生残指数は低水準であった。この時期の加入失敗の原因は、シラス期以降にも求められるかもしれない。それぞれの時期における減耗要因については、ここでは論じられないが、大きな減耗の起こる発育段階は年によって一定ではないことがわかる。1980年代後半から始まったとみられるマイワシ資源の崩壊過程を明らかにするにはシラス期以前と以降の減耗の原因をそれぞれ明らかにする必要があると考えられる。なお、詳細はFisheries Scienceに印刷中である。

(生物生態部数理生態研究室)