【研究情報】

石油に含まれる有機硫黄化合物の海産魚介類への毒性と海洋における分布

小山 次朗

 大型タンカー座礁事故などによる石油流出は事故海域の生態系に重大な影響を及ぼし、その影響は長期間継続することが 過去の例から明らかになっている。例えば、アラスカ沖のエクソン・バルディズ号座礁事故現場沿岸では、底質から石油成分 が検出され、いまだにその影響が残っている。このような大型タンカーの座礁事故は幸いにしてわが国沿岸では起こっていな いが、世界的にみれば、1989年のエクソン・バルディズ号、1993年英国シェットランド島付近のブレア号の事故などが起こっ ている。また、我々の記憶に強烈に残っているのが、1991年の湾岸戦争による大量の原油流出(400万バレルという推定値があ る)である。1992~1994年まで行われた東京水産大学のペルシャ湾調査によれば、全く生物相が回復していない所もあると報 告されている。以上のような事故などによる一時的な石油流出の他に、船舶のバラスト調整やタンク洗浄に伴う排水によって 年間 150万トンの石油が恒常的に海洋に流入しているとする報告もある。このような一時的あるいは日常的石油汚染が海洋で 起こっているにもかかわらず、海産生物に対する影響は必ずしも十分に明らかにされてきていない。
 通常、流出した石油は、海面上に拡散して薄い油膜を形成する。拡散しながら石油中の低沸点化合物(ベンゼン等の低沸点 芳香族化合物を含む)は揮発し続け、水溶性部分は海水中に溶け込む。例えば、多くの芳香族化合物はその 90%以上が大気中 に揮発し、水中にもわずかではあるが溶け込むことが予測されている。残った部分は粘性が増すため、拡散し難くなり、一部 は海水を取り込んでエマルジョン(チョコレート・ムース)を形成する。これらはさらに変化しながら比重を増し、海底に沈 み、水温が高くなると徐々に溶け出して海面に油膜を形成する。流出した石油は、海草類表面に付着してその生育を阻害し、 貝類の入水管等を閉塞して窒息死させる等の被害を起こすことが知られている。一方、わずかではあるが海水中に溶け込んだ 成分は魚介類に吸収されてその毒性を発揮すると考えられる。
 そこで、我々は、この海水中に溶け込む石油成分の中でも毒性が強いとされる芳香族化合物の魚類への毒性を実験的に明ら かにすることにした。表1に主な芳香族化合物の魚介類に対する毒性を、半数致死濃度(LC50)で示した。この表をみると 、淡水生物よりも海産生物のLC50が低い、つまり多くの芳香族化合物の毒性は海産魚 介類により強く表れるということになる。ただし、多くの物質で各LC50がその溶解度を上回っており、フェノール、ナフタ レン及びジベンゾチオフェンのLC50のみが下回っていた。

表1.石油中芳香族化合物の魚介類に対する急性毒性
成分 淡水生物LC50
(μg/l)
海産生物LC50
(μg/l)
溶解度
(μg/l)
フェノール 10,200 5,800 67,000
ベンゼン 5,300 5,100 700
ニトロベンゼン 27,000 6,680 1,000
エチルベンゼン 32,000 430 180
トルエン 17,500 6,300 535
ナフタレン 2,300 750* 30,000
アセナフタレン 1,700 970 100
ジベンゾチオフェン 420 150* 700

 *:我々の実験結果で得られた最も低い値。それ以外 は文献(米国環境保護庁資料、化学品検査協会資料等) 調査で得られた最も低い値。

 以上の結果から、ジベンゾチオフェン(以下、DBと 略記)が海産魚介類に強い毒性を持つことが明らかとなった。この成分は 、イオウを含むため含硫成分として分類されており、魚介類をはじめ特に海産生物への毒性があまり知られていない成分の一つであ る。また、DBはエクソン・バルディズ号の座礁事故後3年経過したアラスカの事故海域の底質から高濃度に検出されており、環境中 への残留性の高いことが明かとなった。そこで、1994~95年にかけてわが国及びペルシャ湾沿岸のDBの環境中分布を調査することと なった。なお、GC/MSの分析結果からDBには少なくとも1~3メチル化物のあることが判明したため、以下ではこれらの総計値 をDB類濃度として示す。

 海水中DB類濃度は、わが国沿岸では21ng/l以下、ペルシャ湾中央部では 3.4ng/l以下と、いずれも非常に低い値であった。一 方、わが国沿岸の底質中DB類濃度は海水中濃度の約1000倍で、 1.2~33ng/gであった。高い値を示した地点の底質は泥質、低い値を 示した地点の底質は砂質であったことから、底質の性状もDB類濃度に影響するものと考えられた。また、ペルシャ湾では1992年に最 高値 127,000ng/gと非常に高い値が検出され、1994年でも 600~4000ng/gと比較的高い値が検出されており、湾岸戦争に伴う原油流 出の影響がまだ残っていることが明らかとなった。また、図1から明らかなように、1994年の調査では、同一地点(図中のSt.17) でも表層で600ng/g、9-12cm の部分では41500ng/gのDB類が検出されており、底質の深度に伴いDB類濃度の増大する傾向が認められ た。また、この9-12cmのDB類濃度は、1992年の表層の値、 72400ng/gと比較的近似した値を示していることが分かった。これは原油 で汚染された底質の表層のDB類が光分解を受けると同時に、新たな砂等が堆積したためではないかと考えられる。

 次に各地点で採取した生物(主に貝類)体内のDB類濃度測定結果を図2に示した。図中 St.13~15は、ペルシャ湾沿岸の地点 である。日本沿岸で採取された生物は、主にイガイ類(ムラサキイガイとミドリイガイ)、カキおよびイボニシであり、検出された DB類濃度は、2~285ng/gの範囲であった。最高値を示した和歌山県下津町地先の地点では採取日の18日前にタンカー衝突事故による 原油流出が起こって、その影響が現れたものと考えられる。ただし、事故1カ月後に再調査した結果、採取されたイボニシ中DB類濃 度は5~7ng/gと低い値となっていた。一方、わが国沿岸で2番目に高い濃度を示した地点は長崎港内の地点であり、船舶の航行が多 いことに起因するのではないかと考えられた。一方、ペルシャ湾では2種類の巻貝が採取されたが、それらのDB類濃度は、わが国沿 岸の魚介類中DB類濃度と比較して決して高い値とは言えなかった。生物と底質を必ずしも同時に採取していないため明確なことは言 えないが、前述したように、原油汚染の著しい地点では生物相の回復が遅れていることから、ペルシャ湾で貝類が採取できた地点( つまり貝類が生息できる地点)の原油汚染が、貝類採取の時点ではあまり著しいものではなかったことがうかがえる。 以上の結果 から、わが国及びペルシャ湾沿岸のDB類汚染をまとめると、いずれの沿岸でも海水中DB類は21ng/l以下であった。表1に示した海産 生物のLC50、150μg/l、と比較して著しく低い濃度であり、これらが生物に影響を及ぼすような濃度レベルではないと考えられた 。一方、底質中DB類は、わが国沿岸では最高値で33ng/gであり、生物に影響を及ぼすか否かは判断できなかった。しかし、ペルシャ 湾沿岸の底質中DB類濃度は著しく高く、生物に影響を及ぼす可能性が十分あるものと考えられた。以上は、環境中のDB類のみに注目 して話を進めてきたが、当然の事ながら原油汚染は複合汚染であり、DB類濃度のみから生物に安全であるとは言えず、その他の成分 の影響も今後考えていく必要がある。

 最後になったが、本研究を進める上でペルシャ湾の試料採取では、東京水産大学の大槻教授、隆島教授、佐藤助教授、ならび に土屋博士に全面的にご協力いただいた。ここに記して謝意を表す。

(環境保全部生物検定研究室長)