「研究成果」

分子生物学的手法による系群の識別

和田志郎


はじめに
 国連海洋法条約の発効に伴い、日本沿岸の水産生物の種の識別や系群構造の解明が これまで以上に求められており、私が所属する生物機能部細胞生物研究室では水産資源生 物の共通基盤的研究としてマサバとゴマサバの稚仔の判別をDNAにより、幼魚以降の判 別をアイソザイムにより、ガストロの系群識別をDNAにより、ウルメイワシ、ソデイカ およびミンククジラの系群識別をアイソザイムにより進めている。

 これまでのアイソザイムによる系群研究では標本群の異質性を見い出せないことも多く 、一般的には手法の感度不足と捉えられてきたが、最近になって、PCR法の普及ととも にDNAによる系群研究が再び盛んになり、その感度の鋭敏性をキャッチフレーズとして 今やアイソザイムに とって代る勢となってきた。DNA分析手法の種類、原理、その多様な利用法などについ ては他の解説書に譲るとして、ここでは系群の識別に話を限定して、従来からのアイソザ イム分析法と、今のところ系群識別に最適と考えられているミトコンドリアDNAのPC R産物の切断片多型分析法(以下、「mtDNA分析法」と略記する)の長所と短所、サ ンプリングやデータ解析などで直面するいくつかの問題点について、日頃の所感を述べて みたい。

mtDNA分析法の長所
(1)変異の蓄積1が多い
 この手法の最大の利点は、アイソザイムをコードする核の構造遺伝子より進化速度が約 10倍速く、従って多くの変異を蓄積しているmtDNAを対象としていることである。 さらに、Dループと呼ばれる領域は機能的制約が甘く、mtDNAの他の領域の数借も進 化速度が早いと言われているので、この領域はアイソザイム遺伝子の領域の数十倍の遺伝 的変異を保有していることになる。

(2)データの継承性がある
 アイソザイム分析では対立遺伝子をゲル上のパンドの相対的位置の違い(易動度)で区 別し、アルファベットまたは数値で表記する。しかし、易動度は緩衝液の種類によって大 きく変り、同じ緩衝液でもゲルのつくり具合で微妙に変るので、客観性に欠ける。このた め、他人の研究結果と比較したり他人のデータを自分の研究に取り込みたい場合には、全 ての変異個体を新たに入手し、自分の標本と同一ゲル上で泳動して遺伝子を同定するとい う大変な作業が必要である。この点、制限酵素により生じるDNA断片の数と長さは泳動 条件とは無関係であり、変異の特定は容易である。

(3)標本に関する制約が少ない
 アイソザイム分析に使用できる標本は生鮮または凍結組織に限られる。酵素によって発 現する組織が異なるので、必要に応じて肝臓、骨格筋、心筋などを少なくとも各20gは 確保しなければならない。保存可能な期間は凍結温度や酵素により異なるが、-20℃の 冷凍庫ならば4~5年が限界であろう。これに対して、mtDNA分析用にはどれか1種 類の組織を凍結かエタノール固定すれば良い。最近は除タンパクが容易な骨格筋を使用す ることが多いようである。エタノール固定は常温で相当長期間の保存が可能である。PC R法では増幅しようとする領域が無傷なDNAが理論的には1分子あれば良いので、多少 の損傷や収量の高低は問題とされないからである。分析に必要な組織量も1個体にっき0 .1gあれば充分で、標本を殺したくない場合には鰭、触角、表皮などでも分析が可能で ある。

(4)分析が簡便である
 PCR法が普及する以前はできるだけ損傷の少ないmtDNAを多量に集めることが必 要で、超遠心による分離精製が不可欠であった。このため、多数の標本を処理するには多 大の時間と労力を要した。PCR法の導入によって超遠心は不要となり、試料が1.5ml のマイクロチューブ内で処理されるようになって手順が大幅に簡略化され、数百検体規模 の分析が容易に行えるようになった。

 変異の検出という定型作業に限って言えば、mtDNA分析法はアイソザイム分析法よ りまだはるかに手数がかかることを否定できないが、それに先立つ基礎的な分析条件の検 討まで含めると話はかなり違ってくる。アイソザイム分析では多型遺伝子座を探索する過 程で、酵素の臓器特異性を調べたり適合する緩衝液を選択するのに大変な手数がかかる。 ウルメイワシについては半年以上を費やして70近い遺伝子座を検討したが、結局ものに なった多型遺伝子座は3つしかなかった。しかも、緩衝液の適否に関する結果は、ごく近 縁種はともかくとして、別の種にはそのまま適用できないことが多い。mtDNA分析で この種の作業に相当するのは、DNAの抽出手順やPCR条件の検討、プライマーの設計 、制限酵素の消化条件の選定などであるが、これらは汎用性が高く、適切なプロトコルを 一度決めてしまえば多くの種に共通して適用できる場合が多い。2つの手法のどちらが簡 便で能率的かを厳密に比較するのは難しいが、今やトータルではmtDNA分析法の方が むしろ簡便だという気がしている。

mtDNA分析法の短所
 mtDNA分析法の最大の弱点は、調べている標本群が単一の系群に由来するものか、 それとも複数の系群の混合物であるかを標本自身から判断できないことである。良く知ら れているように、アイソザイムをはじめ対立遺伝子によって生じる変異にはハーディ・ワ インベルグの平衡への適合度検定が適用でき、逸脱の原因の一つとして異なる系群の混合 が示唆される。しかし、mtDNAは母型遣伝をするため、その検出方法がない。
 系群構造の解明には単に標本群の異同を判断するだけでなく、系群の数、混合域の広が り、混合率まで明らかにする必要があるが、mtDNAの情報だけではそこまで踏み込ん だ解析はできない。例えば、ここに2つの系群とその混合群から採取した計3つの標本群 があって、それぞれが有意に異なる遺伝的組成を示す場合、mtDNA分析法では「3つ の異なる系群がある」と判断するにとどまり、真の構造を単独では解明できない。この欠 点を補うものとしてアイソザイム分析法の存在価値は極めて高いと言える。系群間の遺伝 子頻度の差が大きく標本数が充分あれば、相当精度の高い構造解析が可能である。例えば 、春から秋に北海道のオホーツク海沿岸に来遊するミンククジラは主として北太平洋系群 の個体であるが、4~5月だけは日本海系群の個体が6割前後混合している事実が3つの 多型酵素の分析から明らかにされている。

変異の捕足率について
 次に、変異の捕足率をアイソザイム分析法とDループを対象とするmtDNA分析法と の間で比較してみよう。簡単のため、前者は30遺伝子座を調べ、後者は10種類の4塩 基認識制限酵素を使用する、ごく普通の規模の研究とする。アイソザイム分析法では塩基 の置換をアミノ酸の荷電の差として検出する。塩基置換のうちアミノ酸の変化を起こすも のの割合は約3分の1であり、そのうち荷電の変化を起こすものは約4分の1にすぎない 。したがって、アイソザイム分析法では調べた領域に存在する変異の約8.3%を検出し ていることになる。1つの酵素遺伝子が1,200塩基から構成されていると仮定すると 、この研究では実質的に1,200塩基×30遺伝子座×0.083≒3,000塩基を 精査したと見なすことができる。

 一方、mtDNA分析法では塩基置換を制限酵素の認識部位の数の違いとして検出する 。4塩基認識制限酵素の認識部位は44=256塩基に1ヶ所の割合で存在すると期待されるから、1,100塩基ほどのDルー プ全体では平均4ヶ所である。従って、1種類の制限酵素が実際に精査しているのは4塩 基×4ヶ所=16塩基でしかなく、10種類合計してもたかだか160塩基にすぎないと いう意外な事実がある。そこで、mtDNAにおける1基あたりの変異の量がアイソザイ ム遺伝子におけるそれの約19倍以上あってはじめて、mtDNA分析法の方が多くの変 異を検出することになるのである。

必要な標本数
 一般に、集団問のわずかな頻度差を統計的に検出するには多数の標本が必要なことは良 く知られている。今、ある対立遺伝子の集団Aにおける頻度を0.8、集団Bにおける頻 度を0.6とし、この頻度差0.2をα(有意水準)=0.05、β(第2種の過誤)= 0.9で検出したい場合に最少限必要な標本数は84尾づつ計168尾であり、集団Bに おける頻度が0.7で、頻度差が0.1しかなければ336尾づつの計672尾、と非常 に大きな数になる。従って、予算や事情が許す限り、なるべく多数の標本をはじめから確 保しておく方が良い。

 では、DNA分析ではどうであろうか。ずっと少なくて済むのだろうか。結論から言え ば、やはり多数の標本を必要とすることに変りはないのである。DNA分析ではmtDN A分析法にしろ配列決定法にしろ、個体は塩基配列が異なるいくつかのDNA型に分類さ れ、集団間でその頻度差を検定することになる。通常、頻度が10%を超えるようなDN A型はせいぜい数個しかなく、全標本中に1~2個体(1%前後)しか観察されないDN A型が圧倒的多数を占める場合が多い。サンプリング計画を立てるにあたって考慮すべき ことは、ある集団に頻度Pで存在するDNA型個体を少なくとも1個体検出する確率をQ 以上とするのに必要な標本数を確保することである。今、Pを5%、Qを95%と希望す れば、1標本群あたり約60尾が必要となり、Pを2%に下げれば約150尾が必要とな る。変異の捕足率を上げようとして制限酵素を増やすと、それにつれて低頻度のDNA型 の種類が増加し、統計的検定の精度が必ずしも上がらないというジレンマに陥る。このよ うに、DNA分析だからといって必ずしも少ない標本で済むわけではないのである。

同時多回検定について
 系群の識別を目的とするデータ解析、特にアイソザイムのデータ解析には同時多回検定 がつきものである。これは、同一帰無仮説のもとで1つの標本集団について独立の検定を 複数回実施することで、多くの遺伝干座について検定したり、多数の標本群を総当たりで 比較する場合がそうである。このような場合の有意水準αは検定を1回だけ行う時よりも 小さく設定しなければいけないのである。検定の回数を増やせば真の値から大きくズレた 標本を得る可能性が高くなるから、n回の独立検定と1回の検定とが等価となるよう、

(1-α’)n=1-α
と定める。α’は個々の検定にお ける有意水準である。左辺は近似的に1-nα’とおけるから、
α’=α/n
となる。例えば、今、5つの多型遺伝子座について頻度差なり適合度なりを検定した時は 、個々の遺伝子座での有意水準1%の頻度差が有意水準5%の差と見なされる。この事を 考慮しないと、多数の標本群同士を総当たりで比較した場合などには大きな誤りを犯すこ とになる。例えば、ある遺伝子座の対立遺伝干の頻度差を15の標本群の総当たりで比較 し、105組のうち10組に5%有意差を観察したとする。ここで、「10組は偶然によ り5%有意差が観察されると期待される数(5組)を上回っているからこの標本群は異質 である」と判断するのは誤りである。偶然による大きな抽出誤差と真の差を区別すること はできないのであって、10組が20組、30組であっても同じことである。この例では 、105組の中にα’=0.00048の頻度差を示すものがあった場合に、それをα= 0.05で有意と判断するのである。我が国の既往の系群論文のほとんどはこの間違いを 犯しており、異集団と言えないものを異集団と結論している例が多いので、引用する際に は注意が必要である。かく言う私もかって、国際捕鯨委員会の科学委員会でこの誤りを指 摘され、恥をかいた経験者である。

デンドログラムの有意性について
 根井の遺伝距離(D)は標本群問に対立遺伝子の有意差があってはじめて有意となる。 逆に言えば、異集団であるとの証明がされていない標本群間のDの値に生物学的な意味は ない。それにも拘らず、地理的条件等で分けた標本群間で計算した極めて小さなDの値の 有意性を検討せずにデンドログラムを作成し、近縁関係や集団の異同に言及している論文 を多く見かける。Dの値が有意でないということは、仮に再度同じ規模の標本抽出を行え ば大きく違った遺伝子頻度が得られ、デンドログラムの形状も違ったものになる可能性が 高いということである。私はデンドログラムは系群およびそれ以上のレベルでのみ作成す べきと考えている。

おわりに
 系群が識別できる条件は、言うまでもなく、極めて 厳密な遺伝的隔離が長期間維持されていることである。たとえ非常に低頻度であっても継 続的あるいは断続的に個体の交流がある集団間には遺伝的差異は生じないので、予めこの 点をよく検討して研究対象種を選択する必要がある。mtDNA分析法は理論上は確かに パワフルな手法であるが、私の知る限りでは、同一の研究対象についてアイソザイム分析 法を凌駕した報告はまだない。2つの手法の優劣について結論するにはもう少し実証的デ ータの蓄積を待つ必要があると思われる。従って、アイソザイムと同様に標本の混合を感 知できる核DNAのシングルローカス・フィンガープリント法などが普及するまでは、系 群識別はアイソザイムとの2本立てで進めることが望ましいだろう。

 以上、これまでの経験をもとに思いつくままに羅列したが、この小文がこれから系群研 究を始めようとする方々にとって、なにがしかの参考になれば幸いである。

(生物機能部細胞生物研究室長)