中央水研ニュースNo.9(平成6年7月発行)掲載


産卵期サケの肉質軟化機構に関する研究
山下 倫明

サケの利用と溶ける肉
 サケの漁業はこの10年間で大きく様変わりした。か つて北日本の産地では、サケは貴重なたんぱく資源とし て地域ごとの伝統的な加工法で利用され、文化と歴史へ のつながりは深かった。種苗放流事業が軌道にのる一 方、北洋漁業が禁止され、沿岸での秋サケの漁獲が増大 し続けるとともに大量加工が始まり、その多くがフィ レーとして加工され、冷凍品として流通されるように なった。このころ、筋肉がぺースト状に溶けた軟化現象 が見られるという深刻な問題が持ち上がった。その数は 多い場合は10%程度にまで及んだ。
 当時、水研で異常軟化肉の原因を究明していた小長谷 史郎前利用化学部長のところに持ち込まれた。分析の結 果、サケの軟化肉からは普通より数倍以上強いタンパク 分解酵素(プロテアーゼ)活性が検出され、この未知の 酵素が軟化の原因であることがわかった。
 それまでの小長谷さんの仕事、ジェリーミートの研究 は、筋細胞内に寄生した粘液胞子虫の産生するプロテ アーゼの作用で魚肉がぺースト状に融解するという驚く べき発見であった。当時輸入され始めたヘイク、カラス ガレイ、大西洋サバ、メカジキ、ベニザケに粘液胞子虫 の感染によるジェリミートが現れ、業界では深刻な問題 となったが、小長谷さんの研究によってその原因が胞子 虫プロテアーゼであることが見いだされ、この問題は決 着した。これら一連の研究によって小長谷さんは日本水 産学会奨励賞を受賞されている。
 一方、サケの場合は寄生虫はなく、魚肉の酵素作用に よることが推定された。つまり、サケの軟化肉は産卵期 の牛理に起因する現象であった。細胞内の消化に働く酵 素カテプシン群が関与するというのが小長谷さんの推論 だった。その後、私が水研に入ってから、産卵期サケの 酵素を研究テーマとしてもらい、進めてきた仕事でこの 春に日本水産学会奨励賞をいただいた。水産加工上の問 題点を化学の視点から解決する、すなわち原因となる物 質を単離し、構造を決め、水産物中での作用を調べると いう、水研の伝統ある方法論で進めてきたこの研究が、 学会で認めてもらえて本当にありがたく嬉しく感じてい る。

肉質軟化の原因酵素カテプシンL
 この研究を始めた頃、軟化の原因酵素をサケの筋肉か ら精製し、性質を調べ、筋肉中での酵素の分布と軟化へ の関与を証明するのが筋書きだった。幸い研究室には酵 素研究に必要な機器とカラムワークに使うフラクション コレクターや低温室があったので、すぐに精製を始める ことができたが、本当に苦労した。高知の学会で初めて 精製について発表したのち、精製できなくなってしまっ た。原因はいろいろあった。最初のうちは、サケの肉質 が良すぎて酵素活性が低かったせいだった。一尾50円 で漁協から分けてもらえた採卵採精後のサケが試料とし てベストだった。魚肉に存在するプロテアーゼインヒビ ターが酵素に結合するため、酵素活性が低下するのにも 悩んだが、酸処理でインヒビターがはずれることがわ かったので、pH3でイオン交換カラムにかけ酵素を分離 するという非常識な方法で解決できた。最大の難関は酵 素の純度がよくなるほど、酵素の作用すべき供雑タンパ ク質が少なくなり、酵素自身が自己消化してなくなって しまうことだった。この問題の解決にはできるだけ速く 精製することが必要だった。一日に2種類のクロマトに かけ、透析は不完全でもよいから脱塩の意味で半日ぐら いにし、最終的に得られた酵素はすぐに-80℃で保存す る方法がよかった。4kgのサケから2kg採肉して10 リットルの抽出液から精製を始め、4日後に約1mgの 酵素を得られるようになった。ここまで5年かかった が、そのあとは順調だった。精製した酵素は予想通りミ オシンやコネクチン、コラーゲンなど筋肉の物性をつく るタンパク質を非常によく分解してくれた。つぎに、カ テプシンLの組織染色を試したところ、筋肉細胞の間に カテプシンを濃密に含む食細胞が産卵期サケに増えてい るという非常に興味深い結果が得られた。食細胞は障害 があったり死んだ細胞を食いつぶしていく免疫細胞であ る。サケは産卵期に飢餓状態となり次第に痩せ細ってい く。母川を目指して回遊するが、卵・精巣を充実させる ための栄養分を消費しなければならない。太平洋を回遊 中に筋肉に蓄積されてきたタンパク質や脂肪、カロテノ イド色素は、産卵期に入ると分解され、栄養源として利 用されていく。死を目前にした産卵直前のサケの痩せた 筋肉の障害の起きた部分に食細胞が集まってきたためで あると考えられる。

肉質が柔らかくなる仕組み
 サケの肉質を調べるためには、鮮度が良いサケを手に 入れる必要があった。サケの回帰の南限に近い東海村・ 久慈川の漁協にもらいに行った。河口から1kmぐらい 上流で刺し網が仕掛けてあり、魚が網にかかって浮きが 動くのを川岸から観て小舟で取り上げる漁法である。生 きたまま取り上げて蓄養し、採卵に用いるらしい。氷冷 して勝どきまで持ち帰り、すぐにさばくと死後2~3時 間ほどの鮮度のものを分析に用いることができた。
 このころの京大の豊原らの報告によると刺身を食べた ときのこりこりした肉の硬さの感触は死後直後がもっと も強く、貯蔵中に徐々に肉質は軟化し、魚屋の店先に並 ぶころ死後硬直に入った魚の肉質はすでに相当軟らかく なっているという。その原因は筋線維をつなぎ止めてい るコラーゲンなどの細胞間成分が死後すぐに分解するた めだと考えられている。この研究に従って産卵期サケの 肉質が貯蔵中にどのように変化するかを調べてみた。10検 体の分析の結果、カテプシン活性が強いほど、肉質の 軟化は著しいという、きれいなデータが得られた。とく に、凍結・解凍後の魚肉の場合、軟化の程度は著しく、 カテプシン活性の低い魚肉では貯蔵中の物性の低下はほ とんどないが、活性の強いものでは解凍後一晩でどろど ろに溶けてしまった。このような軟化肉中のタンパク質 はカテプシンLの作用によって分解されていた。この結 果から、凍結魚肉は氷結晶の影響で筋肉の細胞が壊れ、 もろくなり、さらに、筋肉細胞間の食細胞内から遊離し てきたカテプシンLが筋肉タンパク質を分解するため、 著しく軟化するという結論が得られた。

夢のプロテアーゼインヒビター
 プロテアーゼの研究を進めるうちに、プロテアーゼに 特異的に結合するプロテアーゼインヒビターが魚類の組 織に多量に存在することがわかり、魚から見つけたプロ テアーゼインヒビターの構造をモデルにして新しいタン パク質を作り出す分子設計技術に取り組んできた。サケ の卵からインヒビターを精製し、そのアミノ酸配列を決 定した。74残基のアミノ酸からなる、これまで報告例の ない新しいタンパク質である。新規物質は発見者が命名 することになっているので良い名前をつけて論文にした い。プロテアーゼインヒビターは動植物の体液中に多く 含まれているにもかかわらず、生理機能はほとんどわ かっていない。細胞内外のプロテアーゼの活性制御ある いは病原微生物からの防御に働くと考えられるので、魚 にとっての役割を調べるつもりにしている。
 また、利用加工の観点からは、プロテアーゼ活性が強 く加工に適さない魚肉にインヒビターを添加し利用する 研究も進めてきた。水産物のインヒビターなら食品に添 加しても衛生上問題なく利用できる。ジェリーミートや サケ肉のプロテアーゼを阻害するためインヒビターを添 加して良質のかまぼこをつくることができた。水産物の 品質を左右するやっかいなプロテアーゼをインヒビター で抑制する加工法が今後発展するに違いない。

プロテアーゼ研究のこれから
 サケ以外の魚種ではアユの産卵期にカテプシン活性の 著増が認められ、サケと同様食細胞が確認されている。 初夏のヒラメの軟化肉フクロビラメと呼ばれるものにも 強いカテプシン活性が検出されている。ホタテ貝の貝柱 の筋肉にも産卵期にカテプシン活性が認められた。ま た、イカ類の自己消化にもプロテアーゼが関与している らしい。まだ断片的にしか研究されていないが、成熟・ 産卵や飢餓などの生理的変化が筋肉プロテアーゼの活性 レベルに大きな意味をもつようだ。一方、プロテアーゼ インヒビターも非常に興味深い研究対象である。海洋生 物を広く検索すれば新しいタイプのプロテアーゼインヒ ビターが続々と見つかるに違いない。また、プロテアー ゼ系が関与する代謝や生体防御など多くの生理現象への インヒビターの関わりを解明する必要がある。プロテ アーゼとそのインヒビターは魚介類の生理と水産物利用 に関わる大きなテーマとして残されている。

(生物機能部細胞生物研究室)

nrifs-info@ml.affrc.go.jp
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