中央水研ニュースNo.6(平成5年3月発行)掲載


サケの一生とホルモンの関与
浜野 かおる

 サケは私達にとって身近な魚であり、北洋で2 ~5年間回遊した後産卵のため生まれた川(母川) に帰ってくるというこの魚の行動は、誰しも興味 を引かれることだろう。この行動を制御している 機構を解明したいと考えている研究者も多い。
 一生を一周期とするサケの回遊は大きく3つに 分けることができる。稚魚が川を降りて海へと出 る降海回遊、海で数年間過こす海洋回遊、そして 性的に成熟し川を遡ってくる産卵回遊である。回 遊には多くの航法を用いることが示されており、 降海回遊時には太陽コンパス、偏光コンパス、磁 気コンパスなどが、海洋回遊時には走流性と磁気 コンパスが、そして産卵回遊時には嗅覚も関与す ると考えられている。稚魚は生まれた川の匂いを 記憶しており、成魚はそれを頼りに母川に帰る。
 これほど夢のある話は現実にそう多いものでは なく、魚類ホルモンに関する研究を手がけている 私も、この現象を物質的に解明したいと思ってい る。回遊にかかわる生理的現象もホルモンの働き に依存するところが大きい。以下多くの研究者に よる報告をもとにサケの一生とホルモンとの関係 について述べてみようと思う。
 卵から艀化したサケは数カ月で卵黄を吸収して 海へ降る。降海は春から夏にかけて起こるが、そ れに先立ちスモルト化という変態現象が起き海水 適応能を持つようになる。このスモルト化(体表 を銀白化させる)には甲状腺ホルモンが関与し、 一方、海水適応(浸透圧調節)には成長ホルモン と副腎皮質ホルモンが関与している。おもしろい ことに甲状腺ホルモンT4の分泌の急激な高まり はその時期の新月直後に見られ、この時ある種の 匂いにさらすとそれを記憶するらしい。甲状腺ホ ルモンの他にも、性ホルモンが嗅覚の感受性を高め ることが報告されており、これらのホルモンが母 川記銘に関与するという可能性も示唆されている。
 降海後、湾内で一カ月ほど過ごしたサケの稚魚 は北上してアラスカ湾を含む北東太平洋を回遊し、 生殖線が発達し始めると母川をめざして産卵回遊 を開始する。2~5年におよぶ海洋回遊時の行動 とホルモンとの関係については十分な調査が行わ れていない。産卵回遊の途次では性ホルモン、甲 状腺ホルモン、および淡水適応ホルモンであるプ ロラクチンが上昇する。しかし性ホルモンが産卵 回遊の開始に関与するという証拠や、甲状腺ホル モンが遡河行動に関与することの直接的な証明は なく、今後の研究が期待されている。母川を探し 当て、産卵のため遡河する準備として、皮膚ずれ を防ぐために表皮が厚くなり粘液が多くなるが、 これは雄性ホルモンの効果である。この性ホルモ ンはまた、副腎皮質ホルモンと共にタンパク質の 分解を促進して、生殖行動に要求される大量のエ ネルギーを供給する役割を持つ。川を泳ぎ登る莫 大なエネルギーを自らの体から生み出し、産卵し てサケは一生を終える。
 以上のようにサケの回遊における血中ホルモン の変動についてはかなりの部分が解明されてきて おり、回遊現象はホルモンによって制御されてい ることは間違いないだろう。サケの回遊現象は季 節的なものであり、この現象は光周期や水温の変 化等の環境要因によって種々のホルモンの分泌が 促進され、それが行動に結びついたものであろう。 私達は環境刺激とホルモンの分泌とを結び付ける のが神経ホルモンであると考えている。例えば何 らかの環境因子(匂い、水温など)による情報が 感覚器官に入り、生体内アミン(カテコールアミ ン、セロトニンなど)→神経ホルモン→成長 ホルモン、プロラクチンなどへと伝達され、行動 へ結びつくという経路が考えられる。
 神経ホルモンの一つとして知られているTRH (甲状腺刺激ホルモン放出ホルモン)は、哺乳類 の脳内ではその90%以上が視床下部および下垂体 に存在しており、その濃度は1年中ほとんど変化 しない。ところが、私達のデータによれば魚類で は視床下部下垂体に約20%、嗅球嗅葉にも同様に 約20%が存在する。特にサケの場合は嗅球中のTRH濃度は 遡河時に一時的に上昇する。さらにTRHの 産生細胞はサケの嗅球に多く存在する。重 要な感覚器官である鼻腔にある嗅細胞は細胞の一 端から繊毛等の突起を伸ばし、環境の情報を受け 取り嗅球へと伝達する。嗅球中の細胞は受けた情 報を処理し、終脳へと情報を送る。この情報伝達 にはTRH等の神経ホルモンが神経伝達物質とし て関与していると考えられる。
 外界あるいは生体内の情報を伝達する系は以前 は神経系と内分泌系との2つに大別されており、 神経系は神経細胞の電気的伝達とシナプス(神経 細胞の軸索が他の細胞と接している部位)を介し た化学的伝達であり、内分泌系は血液を介したホ ルモンによる伝達であるとされていた。しかし、 神経細胞の形でありながらペプチドホルモンを分 泌する神経分泌細胞が存在することや、内分泌系 にのみ働くと考えられていたペプチドホルモンが 神経伝達物質として神経系でも作用することが分 かってきたために、両者を明確に区別できなくなっ てきた。神経ホルモンはまさにそういった物質であ り、TRHは魚類においては神経伝達物質としての 役割がかなり重要であろうと私達は推測している。
 構造解析はおろかホルモン作用の険討も十分に できなかった神経ホルモンに関する研究が、最近 の10年間に飛躍的に前進した背景には、微量分析 法、免疫組織染色法の確立、分子生物学の進歩が ある。TRHはペプチドホルモンの中で最も小さ な分子量を持つ神経ホルモンであるが、この化学 構造の決定までには膨大な労力と時間がかかって いる。Science誌に載ったノーベル賞受賞講演の 論文を読んでみると、1960年代の後半このホルモ ンの構造解析をするために、Shallyは10万頭の豚 の視床下部から2.8㎎のTRHを単離し、他方の Guilleminは30万頭の羊の視床下部からわずか1.0 ㎎を得ている。現在ではこのように気が遠くなる ような苦労はせずに神経ホルモンの構造分析が可 能であるし、遺伝子操作技術の進歩のおかげでD NAの塩基配列上からその機能を推定することも 不可能ではない。
 サケのように河川と海洋を通して同遊する魚類 は、行動とその制御因子との関係を解明するのに 格好の材料といえるだろう。回遊現象はホルモン によって誘発されていると考えられるが、ホルモ ン分泌がどのような外因によりスイッチオンされ るのかは非常に興味深いところである。そしてサ ケの記憶のメカニズムが解明されるのもそう違い 話ではないと期待したい。
(生物機能部科学技術特別研究員)
参考 サケの一生と関与が報告されているホルモン
nrifs-info@ml.affrc.go.jp
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