中央水研ニュースNo.5(平成5年1月発行)掲載


カメのIr(イリジウム)標識は何年もつか
梅津 武司

 カメは恐竜よりも早く地上に現われ、二億年も 大きな変化のない生活をおくってきた。8種のウ ミガメは爬虫類中で海の生活に最も適応した群で ある。恐竜の滅びた臼亜紀末の大絶滅期にもカメ は生きのびてきた。地球上では大絶滅は何度もあっ たが、短期間で種が死滅したのではない。種の絶 滅が今問題なのは、それが人間活動に起因し、地 質学的スケールでは瞬時に起ころうとしている点 にある。
 1835年ダーウィンがガラパゴス諸鳥を訪れた時、 15亜種のゾウガメがいたが、今では8亜種しかい ない。小笠原で記録を始めた1880年には1852頭も のアオウミガメが捕獲されたが、1923年には32頭 になった。最近は年100頭強である。三浦半島で も1940年代には八月の夜、鎌倉や城ケ島の海岸で アカウミガメの産卵がみられたが、1988年を最後 に上陸記録はない。世界で年間100万匹のウミガ メ捕殺という古い推定(1971年)があるが、今は 減っただろうか。食料やべっ甲原料用の捕殺の他 に、資源の減少は産卵場の消滅が主因であり、ポ リ袋をクラゲと間違えて食べて死ぬこともある。
 ウミガメの個体数、回遊系路、成熟年令などは よく分かっていない。標識個体を放し、再捕デー タからそれらを調べる方法がある。小笠原では古 くから人工孵化と標識放流が行われ、1923年に肢 に切り込み(欠刻)をして放した稚ガメ(30g) が、45年後に300kgに成長して再捕された例もあ るものの、魚ほどうまく行かない。小笠原から日 本列島まで1000㎞以上の広大な海を10年以上もか けて回遊する間に、標識は脱落し、欠刻は修復さ れるし、魚に比べて放流数も少ないからだろう。 他によい方法がないものだろうか。
 渋谷らは1970年代にユウロビウムEuを含む餌 で飼育したシロザケ稚魚を放流し、3年後に回帰 した親魚の鱗・耳石中にEuを検出し、Eu標識の 有効性を確かめていた。このアクチバブル・トレー サ法をウミガメに長年取組んでいた倉田さんに、 小笠原寄港中に話したことがあった。出港間際の 蒼鷹丸にこの方法がカメにも応用できないだろう かとボートで倉田さんが見えた。1981年7月のこ とである。帰京後に私はつくば市の渋谷氏(当時 の農技研)を訪ね、実験に小笠原まで出かけても らった。しかし間もなく氏は退官され、私自身や らざるを得なくなった。
 試料を原子炉の中性子で照射し、普通の元素 (安定元素)を放射性核種に変えて、その放射能 によって元の元素を定量する放射化分析という手 法がある。超微量分析が可能な場合があり、試料 を非破壊(生・乾物のまま)で分析できる。生物 または粒子を天然にはあまり存在しない元素で標 識し、これを放しあるいは拡散させて後、それら を含む集団を回収し、放射化分析で標識を確認す るのがアクチバブル・トレーサ法である。生物学 的に活発な元素は排泄され、簡単に落ちてしまう ので不適当である。放射化されやすいことも必要 である。
 Euはランタノイド(希土類)と呼ばれる15種 の似た金属の伸間で一緒になって周期律表の1つ の位置を占める。岩石1トン中に約1g存在し、 151Euと 152Euからなる。 151Euは照射により 152Euとなり、 放射線を出しながら13.3年の半減期で減衰す る。広島で四十数年前、原爆により一瞬中性子を あびて岩石中で生成した152Euは今なお残存してお り、その量は爆心地からの距離により異なること が明らかにされている程Euは検出感度が高い。
 ところがアオウミガメで与えたEuは鱗板・骨 で検出されず、再度の試みで無効とわかった。そ こで四塩化イリジウム(IrC4・ H2O)を用いる ことにし、Irを2000ppm含む餌を2週間稚ガメに 与え、その後、60・400・740・1110・1550日目に 対照区とIr区のカメの骨中のIrを追ってみた。甲 羅の外縁部となって全体では楕円形の輪になる骨 の尾部側を主な試料とした。乾燥した骨片をポリ エチレンフィルムでシールし、照射カプセルに詰め 原子炉で24~48時間照射し、数週間冷却後にGe 検出器で600~100000秒測定する。天然のIrは 191Ir(37%)と 193Ir(63%)から なり、中性子で照射されると、前者は 192Ir、 後者は194Irとなり、これは半 減期が19時間なので数週間冷却すると消えてしまう。 192Irの半減期は74日である。骨の無機成分の 98%はCaOとP2O 5で残りはSr・Zn・Cl・S・Na・ K・Fe・Co等で、冷却によって生成した短寿命 の24Na・ 82Brなども消滅し、 192Irのγ線ピークがはっ きりしてくる。十数本の7線の中から放出率の高 い2本(316,468keV)を用いてIrを定量する。
 測定しているうちに部位により192Ir濃度に差の あることがわかったので、110日目の試料の尾部 を中心に骨を数mmにスライスして測定してみた。 その結果、縫合線部(骨の継目)は水分が多い骨 の成長点でIrは残存せず少なく、線と線の中間部 分は成長が遅くIrが多く残存していることが分かっ た。この中間部は鱗の継目直下に当たる。骨と鱗 の継目をずらせることにより甲羅の強度を増すと いわれる。さらに細分割して 192Irを追って行くと、 腹側の外縁の綴密骨質には少なく、これに続く海 綿骨質を伴う部分が最大値を示し、最小値の350 倍であった。こうして標的部位が分かったので、 その後はカメを生かしたままノコで骨片を切り取っ て容易に192Irが定量できた。
 こうして得られる90のデータでIr濃度の平均と Ir投与後の時間を両対数でとってみると強い相関 (0.98)がみられ、2000ppmのIrを投与したカメで は30年後にも骨に0.7ppb程度のIrが残存する推定 もできた。今回でも0.48ppbが容易に検出できて いるので、0.7は十分検出可能である。海産生物中 のIrは乾物当り5~80pptであり、カメの骨で10 pptと仮定すると、その10倍の0.1ppbあたりがIr 標識の識別の下限になるようだ。アオウミガメの 成熟には8~25年という説があるが、Irの標識は 30年は使えるだろうと希望的に考えている。加藤 (現経営経済部長)はマダイでIrを4年間追跡し ている。Irの骨中での動きはカメとマダイは似て いる。Euは魚と爬虫類では動きは異なるよう だった。
 Irは海水100万トンに1.3mg、Euはこの約100倍含 まれ、海産生物中には共に103-4倍濃縮されている。 カメでEuが検出できなかったのは投与したEuと 海水中のEuの化学形も投与期間も異なったため だろう。Irは昔は万年筆の先に使われていたが、 6つの白金属元素の中では身近な金属ではない。 最近少し有名になったのは大絶滅が起きた白亜紀 末に対応する地層にIrの異常濃縮が見つかったか らである。これは世界各地で認められ、絶滅の一 因となった6500万年前の隕石衝突の証拠とされる。 衝突の跡はユカタン半島に直径200㎞のすり鉢状 に残っている。原始太陽系星雲に均等に含まれて いたIrは、凝集で地球の形成される時、鉄に親和 性が強いので地球中心核に沈んでゆき、地殻には 痕跡程度しか残らなかった。そのため地殻のIrは 宇宙(隕石・塵)でのIr濃度の1000分の1程度な のである。
 さて、Euは現在サケで実用化されていない。 年間数10万尾の標識はヒレ切りで行われる。カメ でもIr以外にもう2元素ほど利用可能なものがほ しい。そうすれば7つのコードができる。目下ア カウミガメでそれを探しており、ボランティアが 飼育を担当している。学会誌にIr標識を発表して 一年半程してもぽつりぼつりと別刷りの請求が釆 て、マイナーなカメの研究者が案外多いことを知 らされた。オランダ領アンティルとか地図で探さ ねば分からない所からも。人間にとって役立つ、 立たないにかかわらず、あらゆる生物の種を絶滅 させてはならないという主張は、ウミガメでは実 現の可能性があるように思えるのはどうしてだ ろうか。(ppm:100万分の1,ppb:10億分の1,ppt:1兆分の1)
(環境保全部長)

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