中央水研ニュースNo.4(平成4年3月発行)掲載


イカの肝臓を読む
梅津 武司

 グリーンランドの雪中の鉛濃度は、汚染のなかっ た太古に比べて、現在では数百倍になっている。 氷柱を年代別に調べると、産業革命の石炭燃料で 増加が始まり、1950年代の鉛添加ガソリンで急上 昇したのが分かる。エアロゾルで飛来したこの鉛 は海では水深2,000mまで分布すると考えられて いる。それは鉛の極微量分析だけでは分からず、 同位体比分析で判断できる。
 Pb(ナマリ)には4つの同位体があり、地球 創成時から存在するのは1.5%を占める 204Pbの みである。206Pb・ 207Pb・ 208Pbは それぞれ238U (ウラン)・235U・ 232U・ 232Th(トリウム) の放射性壊変でできた。したがって鉛鉱床のPb 同位体比は鉱床年齢と母岩のU・Th・Pb比で決 まり、産地により異なる。アメリカ産工業鉛の 206Pb/ 207Pb比1.22に対し、 アジア産は1.16であ る。カリフォルニア沖湧昇流の一分枝では1.17の 値が示され、その起源がアジア産鉛に影響された と推定される研究もある。海底堆積物のPb同位 体比についても以前から知られている。
 データのない生物について調べてみることにし た。試料は太平洋と大西洋のキンメダイ、南極オ キアミ、マリアナ海溝(6,000m)のソコダラ等々 。分析は1CP-MS(誘導緒合プラズマ質量分析 計)により、東レリサーチセンターに依頼した。 この機械は1億円程もし、当部でも購入したいと 考えている。データが得られたので、上野の東京 国立文化財研究所に相談に行った。ここのグルー プは古い青銅器のPb同位体比を多数分析し、6 世紀までの銅鐸・銅剣などの原料は全て大陸産で、 日本産の原料が使われだしたのは和同開弥(708 年)前後であることを明らかにしている。青銅中 に数%含まれるPbの同位体比は、いわば青銅器 の指紋に当たり、これを用いて考古学の論争に見 事に決着をつけたのである。
 その際NOAA(アメリカ海洋大気局)の水産 物204種について微量元素15種の分析結果から、 魚介類のPb濃度は約0.5ppm(200万分の1、生) という部分をコピーして持参した。それを見て、 彼らがいうには、1000倍高い値だと。高精度分析 値を見ると、ビンナガ肉のPbは0.4ppb(25億分 の1)で確かに3桁差がある。分析過程でタバコ の煙はもとより、空気・水・試薬・器具からPb 汚染が生じるということである。クリーンルーム で硝酸洗浄石英るつぼと超高純度試薬で処理し、 個体用表面電離型質量分析計でPb同位体比を求 めるというのが彼らの助言だった。汚染のない凍 結試料の中心部を用いて分析を試みたが、ICP-MS では測定誤差が±0.02%内にはおさまらず、 やはり満足な結果は得られなかった。
 かくしてPbは失敗に終わったが、他の重金属 では多くのデータが得られた。ダイオウイカ(八 戸沖)やニュウドウイカ(アリューシャン)の肝 臓からは0.5%(灰)の高濃度Cd(カドニウム) が定量された。これら試料(灰)をガンマ線スペ クトロメトリィで分析すると見慣れぬピークが見 つかった。すなわち原子炉で照射した灰のガンマ 線を測定していると、照射で生じた60Co(コバ ルト)や110mAg(銀)のものではない半減期40 日の110Ru(ルテニウム)のピークが認められた が、元となる102Ruがそれほど多量に含まれるこ とはありえない。他にも証拠があり、これはU の核分裂生成物と判断された・これはイカ肝臓に Uが多いことを意味する。
 そこでイカ肝臓を手始めに生物のUを調べてみ た。天然のUの99.3%を占める238Uは45億年の 半減期ではじめに述べた206Pbになるが、原子炉 の照射により239Uになる。これが24分の半減期 で239Np(ネプツニウム)になる際に弱いガンマ 線を放出するのを計測してUを定量する。結果は 軟体動物内臓(イカ肝臓・貝内臓)と硬組織(イ カくちばし・中軸、貝足系)にUが多く、イカ肉、 甲殼類や魚・クジラ・カメ・カツオドリ肝臓では この方法ではUは検出できなかった。イカ肝臓で はUが多い(1億分の1~1,000万分の1、生) ことは確認できた。同じ試料を30秒照射してでき る半減期3.75分の52V(バナジウム)を用いて手 早くVを定着してみたところ、イカ肝臓・くちば し・中軸に多く、Uとよい相関を示すことが分かっ た。
 イカ肝臓の重金属データがたまり、一方でPCB や有機スズ化合物(TBT・TPT)データも得られ ていたので、91年度からイカ肝臓を用いて海の汚 染を調べるスクイッド・ウォッチの研究を環境庁 予算で始めることになった。
 イカ肝臓が環境問題で最初に登場したのはビキ ニ・エニウェトクでの原爆実験の頃だった。当時、 多くのマグロが放射能汚染魚として廃棄された。 1954年俊鵠丸の調査でマグロの餌となる生物のう ちイカの放射能が最高で、しかもそれが肝臓のみ に限られることが注目されたのである。しかし当 時のガイガーカウンターによる計数では放射能の 減衰を追うのが精一杯で核種同定までには至らな かった。その後60年代半ばになり、核実験の放射 、性降下物質が最盛期をむかえた頃になって、イカ 肝臓には60Coや 108mAgが蓄積されることがアメ リカの研究者によって明らかにされた。
 ここで目を転じてイカ漁業とイカの生活を見て みよう。わが国では年間数十万トンのイカが消費 されている。これは世界の全漁獲量の半分に当た る。もっともマッコウクジラや全海鳥はそれぞれ この十数倍程のイカを捕食しているという試算が ある。日本漁船は近海だけでは不足なので、世界 が出かけてイカを漁獲している。ニュージーラン ドやオーストラリアのスルメイカ、アルゼンチン イレックス(スルメイカ)、今は不漁になったカ ナダイレックス、漁獲が殖えはじめたペルー沖の アメリカオオアカイカなど。しかし、北太平洋の 流し網によるアカイカ漁は92年末で停止となる。 こうして広い海域からのイカ肝臓が利用できるの は、イカ好きの日本ならではということになろう。  イカは貝の仲間であるが、重い殻のない分遊泳 力の強い攻撃的肉食動物である。二本の蝕腕です ばやく生餌を捕らえ、八本の腕で絡め、くちばし で噛み切って体重の一割もの餌を取る。小型のア ミ・ヨコエビ・中型のエビ・イワシ、さらに共食 いへと、同じサイズの魚に比べるとずっと広範囲 の餌を捕食できる。食物連鎖上でかなり高位にあ るので、連鎖を経て濃縮される傾向のある汚染物 質は溜りやすい。またマグロ・クジラ・海鳥の重 要な餌になっているので、濃縮した汚染物質をさ らに上位者にもたらしもする。
 例外もあるが、約500種いるイカの寿命は一年 で、この間に海水中の三十数種類の元素で体を作 りあげるので、海の環境を一年毎に記録すること となる。開いた胴の中央にある褐色の臓器が肝臓 (中腸線)で、急速な成長と活発な遊泳を支える エンジンに当たり、体重の一割前後を占める。そ の半分は水分、三割が油でこれが増加すると水分 がへり、両者で約8割を保つ。タンパク質は2割 弱。100gの生肝臓から1g強の灰がえられ、金 属は酸化物や塩化物となっている。P・K・Na・ CZで8割、これにCu・Ca・Mg・S・Fe・Zn・Srを 加えると99%となる。残りの1%にこれ以外 の海水中のほとんどの元素が濃縮されている。もっ ともHg(水銀)・As(ヒ素)・Se(セレン)など は揮散するので灰には残らないが、肝臓を散分解 しICP-MSにかけてみると、数十元素は容易に 検出されるのである。
 スクイッド・ウオッチは始まってまだ一年にな らないが、現時点で二三のことはいえる。イカ肉 の油分1%に対し、肝臓では30%であるので、油 に溶けやすい有機塩素化合物(PCB・DDT・ダ イオキシン)、有機スズ化合物は肝臓に溜りやす い。PCBは日本近海スルメイカで検出されるが、 ニュージーランド産では検出されない。 イカのPCB濃度は長寿命のイルカより2桁低く、 これは一年生の特徴であろう。山田氏の分析によ ると、有機スズは日本海を始めとする北半球で検 出例が多いが、ペルー・オーストラリアなどの南 半球は検出されていない。
 人工放射性核種は、60Coは、5.3年の半減期で 減衰してはいるが、なお全海洋に分布する。チェ ルノブイリ事故で一旦急上昇した108mAg(半減 期250日)は現在ではほとんど消滅してしまった。 核実験起源の108mAg(半減期127年)は60Coと 同じ程度肝臓から検出されることが多いが、南半 球全域には分布していないようである。これは近 日中に明らかになる。
 上記2つのグループの物質は明らかに人間活動 に由来すると断定でき、肝臓に海水中濃度の105 ~106倍に濃縮されると考えられる。しかし、重 金属については簡単ではない。イカ肝臓中での濃 度の変動幅が大きく、成長や成熟に伴う変化につ いての法則性に見当がつかず、今後の課題である。 ベネズエラ原油にはVが1,000ppm(1,000分の1) と多いが、仮にクエート原油にも多いとすると、 油井炎上によってVは北半球低緯度海域に降下し ただろう。すると先に述べたようにその海域のイ カの肝臓やくちばしのVが増加するかもしれない。 塩辛くらいでしか付き合いがないイカ肝臓である が、海の汚染について多くの情報を秘めている。 その解読にはもっとイカの生活、生態や生理を知 らなければならない。
(環境保全部)

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